詩篇30篇 2013.10.27

 

30:1 主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

30:2 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

30:3 主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。

私たちが「よみ」に下っていても、気付かない

主が教えてくださって、はじめて分かる、あるいは振り返ってみて分かる

主の不思議な助けがある時に、守られる

きちんと主に従っていくなら、かつて「よみ」に置かれていたということが分かったり、罠や滅びから引き上げられる

 

30:4 聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。

30:5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

ひとつは、神が私たちに対して御怒りを下される、しかし、つかの間で、夕暮れには涙が宿る

父が子どもを懲らすように、神は鞭や御怒りを下される、でも、これにより義の道に入り、罰が益になる

参照 へブル人への手紙12:511

12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

鞭打ちは、私たちに歩みにとって大事

人間の親子関係がそうであるように、神の目から見て、いつになっても私たちクリスチャンは子ども

ゆえに必要に応じて、ちゃんと叱責を下す

御怒りは来る、しかし、つかの間

悪いことをしたわりには、速やかに済まされる

ずっとしつこくはない、でも、頑なになっていつまでも悔い改めないなら別

適切な怒りや罰は来る、しかし速やかに去る

適切な怒りや警告がないと、どこまでも間違えた方向へ行ってしまう

たしかに主の鞭は、箴言のみことば「しもべをことばだけで戒めることはできない」と書かれているように、体に痛みが伴うことも往々にしてある、しかし恵みがある

 

30:6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」

30:7 主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。

ゆるがされない(KJV):動かされない

移動したり、動かないことにポイントがある

参照 黙示録6:1214

6:12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。

6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

地震:「揺り動かし」に通じる

太陽、月:器のたとえ→キリスト教会の大きな器が罪に入り、変な霊にやられ、動かされた

天の星が地上に落ちた:艱難の中で、天の星(クリスチャン)が、この世的になってしまった

Ex:地上の教えを採用し、聖書のみことばを曲げる

青い実を振り落とすようであった:御霊の実がなくなる

巻物:聖書、みことば

天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された:みことばが揺り動かされるために、天的な教会がなくなり、地の教会(この世的な教会)ばかりになっていく→未来の教会の姿

今まで狭い道を歩いていたのに、広々とした道を歩いている→滅んでしまう

でも、主がとどめてくださるなら、動くことはない

世の終わりの時になると、あるべき位置から動かされてしまう

Ex:パリサイ人&律法学者(モーセの座に座っている人々)、祭司長(アロンの血族)→こういう人々が動かされていた、そしてイエスさまに、「蛇よ、まむしのすえよ」と言われてしまった

そしてイエスさまの時代の旧約の終わりだけでなく、新約の終わりも、同じく動かされていく

しかし主が目を留めてくださるなら、動かされずにとどまれる

「天地は滅んでも、神のことばは決して滅びることはない」と言われているように、聖書の教えは変わらない、要するに周りが動いているだけ

そして皆が動いているので、正しいことがおかしく見えてしまう

 

30:8 主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。

30:9 私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

30:10 聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。

30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

30:12 私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。

私たちが嘆きを通っても、それを解いて、喜びを着せてくださる

主に着いていくときに、栄光や喜びや主のわざを見ていく

Ex:出版の働き

言われたことをやっていくことにポイントがある

苦難の中でも、主の言われたことを行っていく

嘆きや忍耐を通っても、主の憐れみによって11節のみことばが成就する、そして主の時に報いてくださる

培った信仰は今後、大いに生かされていくし、全て益になる