詩篇82篇 2014.10.26

 

詩篇82篇は「神々」に対する神の怒りのことば、厳しいことば

 

アサフの賛歌

 

82:1 神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真中で、さばきを下す。

参照 ヨハネの福音書10:34,35

10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。

10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

神々:神のことばを受けた人、神のことばの奉仕をする人、いわゆるメッセンジャー、指導者、教師、牧師、神学者の人たちのこと

本来しもべの立場にならなければいけない人たちが、「神」になっている

神のみことばを扱う人は神のように見なされ、いずれ「神の前のさばき」に立つ

教師は危険な仕事、そのあたりは「覚悟」する

教師が間違えるときに、永遠の命を奪う働きになってしまう

結果として、蛇やまむしになってしまう可能性がある

牧師、教師になったからといって、必ずしも天の御国に入るとはかぎらない

イエスさまは当時の律法学者やパリサイ人に対して「まむしのすえたち」と言った

神が「さばき」を下すので、それを見ていかなければいけない

「注解書」通りにメッセージをすると、「ゲヘナ」へ道連れにしてしまう

 

82:2 いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ

さばき:判断

みことばをあずかる人に対して、厳しい態度をイエスさまは取る

「判断」が「不正」だと言っている→神が正しいと言っている人を正しくないと言い、正しくない人を正しいとする

Ex:進化論を推奨していたり、地獄は無いと言っているローマ法皇を正しいとしている→NG

間違いに対して、「間違いだ!」と言わないのはNG

きちんとした方向性を示すことが大事

広い道を行っている人に、「そのままでいいよ!」というのは、不正な判断

みことばに沿って、正しいことを言っていく

 

82:3 弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。

みなしご:父のいない子ども、ゆえにローマ法皇を「パパさま」と言う人は「みなしご」ではない

地上に父はいない、しかし天の父だけを父とすることにポイントがある、でも実際にそうすると往々にして「摩擦」が起きる、けれどもそういう人たちの権利を認め、助け出す

真に天の父を父とする、そのことを教会の中で尊重していく

神々と言われる教師と、神のことばはぶつかる場合がある

 

82:4 弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。

82:5 彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。地の基は、ことごとく揺らいでいる。

教師は何でも分かっていることになっている

しかし教会で神々のように思われていても、実際は知らない、悟らない、ということを5節では言っている

Ex:律法学者はクリスチャンであり、聖書の教師でありながら神を悟らなかった、いわば「盲目」の人だった

教師になっても、きよくないなら神を悟らない

そして今は悟らない人のほうが多いのでは?

その人個人の歩みがきよくないと神を見ない、イエスを目の前にしながら理解できないパリサイ人や律法学者のようになってしまう

心がきよくないと真理を見ない、その人自身がきよくないと理解できない、その人の歩みによって真理が見えるか?それとも見えないか?に分かれる

神の前に真実に歩んでいこうとする人は、真理を見る

「地」(教会のたとえ)は基本的に動かないもの

教会は益々これから揺らぎ、聖所の基が覆される

教会の根本的な教理、いわば贖いや救いがひっくり返される時が来る

 

82:6 わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。

「神々」→皮肉なことば

本当は神が立つ位置に立っている、さばきを行っていたり、越権行為をしていたりする

奉仕をするときに「分」を越えてはいけない

教会の奉仕者はそうなりやすい

高き子ら:クリスチャンのこと

 

82:7 にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。」

人のように死に:この世の人と変わらないような死に方のこと

神のことばをあずかる奉仕は尊い、しかしやり方を間違えると、とんでもない結論になる

 

82:8 神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。

地をさばく:この世的なクリスチャンと関係する

地に着いたクリスチャンや教師はさばかれる

教師に対してのさばきは厳しいので、しもべの立場となって恐れを持って、神に仕えていきたい