詩篇101篇 2015.3.8


ダビデの賛歌



101:1 私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。


ダビデが色々な歌を歌っている。


ダビデはイスラエルのもっとも偉大な王だった。


それと共に、「聖書」は「キリストについて証する書」とも言われていて、聖書に登場する色々な人物は、キリストの各一面を証している。


そしてダビデは「王」としてのキリストの型である。「王」として、キリストがなされることについて語っている。


ちなみに聖書の著者は神さまなので、単純ではないし、人間的な事柄ではない。そういう意味合いにおいて、「御国の奥義」についても見てみたい。


私たちはキリストの前に歩んでいくときに、恵み&さばきの両方がある。


しかしキリスト教会では、恵みや愛について強調し、もう一面の「さばき」に関してはほとんど言われない。しかしこのように一面のみを強調するのは「異端」と言える。


私たちがキリストの前に正しく歩むなら、「恵み」に入る。けれども正しくないなら、「さばき」に入ってしまう。


Ex:自分では「良かれ!」と思って行ったことに対して「さばき」を受けてしまった人がいる。サウル王を殺したことをダビデに報告した人がいる。サウル王はダビデの命を狙っていたので、ある意味ダビデの「敵」となっていた。しかしだからと言って、サウルの殺害の報告をダビデが喜んだか?と言うと、そうではなく、その人は殺されてしまった。そしてこの時のダビデも、キリストの型と言える。たしかにダビデがその人に対してさばきを行ったのだが、しかしこれは、キリストはこのようなことにさばきをされる、という風に理解できる。


私たちは、「恵み」と「さばき」の両面を見る。


ちなみにキリスト教会の真の王は、イエス・キリストである。しかし今のキリスト教会の問題点は、建前はともかく、キリストが王である、ということを認めないこと。Ex:カトリックは、「ローマ法皇が王」だと言っている。しかしそれは違う。


ポイント:とにかく、キリストが真の王として治めている、ということは正しく理解する。


Ex:キリストが十字架に付けられた時に、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きで殺した。このことには意味がある。つまりキリスト教会の王を十字架に付けて殺してしまったのである。


ポイント:キリストが王ということを尊重して歩む!


101:2 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。


ダビデ、すなわちキリストは、こういうことに目を留める。


正しく歩むなら、キリストに目を留められる。しかしそうではないなら、目を留めてもらえない。


エレミヤ牧師の証:いい加減な歩みをしていたときには恵みが無かった。しかし正しくなり、目を留められるようになった。


そして、ダビデ個人ではなく、キリストがどんな風にキリスト教会を治めているかを今回の101篇を通して見てみたい。


101:3 私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。


「私は曲がったわざを憎みます」とあるように、曲がった働きをするときに、キリストに憎まれてしまう。Ex:カトリックが言っている「地獄は無い」という教理は、曲がったもの。


「まといつきません」ということばについて見てみましょう。


ヘブル語の原語において、創世記でこのことばが使われている。


参照 創世記2:24

2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。


妻と結び合い、ふたりは一体となるのであるまといつく


再び詩篇に戻ります。


ポイント:クリスチャンは男女問わず、キリストの花嫁として召されている。たとえ話の「賢い娘」のように、婚姻が成立してなんぼのものである。けれども・・・教会で曲がったわざ(煉獄がある、地獄は無い、セカンドチャンスがある等の教理を唱えること)をおこなっていくときに、残念ながら花嫁として迎え入れられない。キリストから怒りを買い、結婚が成立しなくなる。


101:4 曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。


曲がった心(兄弟を憎んだりすること)の人には、キリストが距離を置く。


「悪」を行っている人は、キリストに知られない。キリストのことを知ることはない。


Ex:ローマ・カトリック教会のマザー・テレサの慈善事業はたしかに素晴らしいものだった。それは奨励されるものであり、ある意味できる範囲で見習うべきものでもあろう。けれども・・・彼女は「キリスト教以外の宗教にも救いがある」と言い、臨終を迎えている人に対しても「キリストを信じる必要は無い。ヒンズー教徒でも仏教徒でも救われるから」なんてことを言っていたそう。普通にクリスチャン生活を送っているならお分かりのように、このことは聖書のことばを真っ向から否定するものである。そして彼女は自分の友人に「私の心は神(キリスト)と離れている。」と手紙に書いている。それはそうかもしれない。彼女の行いはともかく、しかし人々に曲がったことを伝えていたゆえに、キリストからは懸け離れていたというのは事実であろう。


ポイント:キリストから離れているのはNG。私たちが曲がった教理や教えを語るときに、キリストから知られることは無いし、私たちがキリストを知ることも無い。そしていくらクリスチャンと称していても、意味の無いクリスチャン生活を送ってしまうことになる。


101:5 陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。


クリスチャンでも結構、人の悪口を言う人がいる。


悪口を言ったり、そしることをする人は、滅ぼされる可能性がある。ちなみに聖書において「兄弟を憎む者は、人殺し」と言われている。


ポイント:人の悪口を言ったり、そしったりするときに、結局は自分が惑わされて滅ぼされてしまう。このことを恐れて歩んでいきたい。


また、「高ぶる」のも良くない。みことばに「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブの手紙4章6節)とある。神さまはそういうお方である、ということは理解しておきたい。


クリスチャン生活を送っていると、イエスさまの御性質がだんだんと分かるようになる。イエスさまは高ぶらずに謙虚なお方である。


ポイント:ゆえに謙虚な歩みをしていきたい。高ぶると退けられるので、主に倣って謙虚に歩みたい。


101:6 私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。


「住む」ということばについて、7節で「家」ということばが出てくる。ここでの「家」とは、「天の御国」のこと。しかし、「私の家の中には住みえず」とあるように、「天の御国」に入れない人について言われている。そしてこのことは成就する。


ここで、「天の御国」に住む人と、住まない人について言われている。


Ex:アブラハムは、「真実」を尽くして神を信じた。そして約束の地(天の御国)に入った。


つまり、「信仰」を持っている人に神さまの目が注がれる。


多少困難を通っても、信仰を持ち続ける。主を信じて留まり続けることにポイントがある。


Ex:教会では月刊バイブルのポスティングをしているのだが・・・ある時、「もう、ポストに入れないでくれ!」というクレームを受けた。しかしだからと言って、「やめる」ことに御心があるか?と言うと、そうではなく、これからも引くことなく、押していきたいと思った。


「全き道」ということばにも注目していきたい。


キリストに仕えるのは結構難しい。それこそ「主よ、主よ」と言っている人であっても、後の日に退けられてしまう可能性があることを聖書は語っている。つまりこのことは、キリストに仕えたと思って、別のものに仕えている、ということがある、ということを言われているのでは?と思う。


ポイント:「全き道」を歩むときにキリストに仕え、受けるべきものを受ける。


ちなみに今の時代の正しい道とは?それに関して・・・アメリカが獣の国として台頭している。そして何かとクリスチャンをターゲットにしようとする方向に進んでいる。たとえば家庭集会をしている人たちに罰金を課したり、同性愛を指摘するクリスチャンに対して厳しい処分が施行されていたりする。こういうことを、つまり「獣の国」についてハッキリした方向性を示すのが、まさに「正しい道」だと言えるのでは?と思う。


また、教会の背教化に向けて、仮庵の祭りを行うことを話すのも正しい。


ポイント:他のものに仕えても、つまりキリストが語っていないことを伝えたりしても、キリストからの恵みを受けることは無い。


他の人が惑わされても、「正しい道」に入ることが尊いと言える。


ポイント:神の憐れみによって勘違いではなく、「正しい道」に入り、主に仕えていく。


101:7 欺く者は、私の家の中には住みえず、偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません。


教会で欺いたり、偽りを語るなら、たしかに信者は増えるかもしれない。しかし「家」(天の御国)に住むことができなくなってしまう。のちの日に住む所が無くなる。住まいが用意されなくなるので気を付けていきたい。


Ex:艱難前携挙説を一生懸命メッセージしても、それは欺き&偽りの教理と見なされてしまう。主がかつて12弟子に「住まいを備えに行く」と言ったが、しかしそういうことを語る人は住めない。そうすると「火の池」に入るのか?!


ポイント:「偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません」とあるように、偽りを語るなら、結局倒されてしまう。


101:8 朝ごとに、私は国の中の悪者をことごとく滅ぼします。それは主の都から、不法を行なう者をことごとく断ち切るためです。


「悪者」(不正な働き人、真理と全く違うことを語る人)は、滅ぼされたり、断ち切られたりしてしまう。


ポイント:「神の働き」は非常に厳しいので、「恐れ」を持つ!


本日のポイント:ダビデ個人のみではなく、王であるキリストがどのようにしてさばきを行うのか?ということを見ておく。そして不正を行う者は、御国に入れない。けれども実際にはそのように聖書を読まない人が多い。これは「御国の奥義」とも言える。そして「御国の奥義」はイエスさまの時代もそうであったように・・・12弟子のように真にキリストに仕えていく人、すなわち少数の人にしか知らされなかった。その原則は今も同じ。ゆえにもし大半の人が理解しないとしても、驚くには値しない。けれども書かれていることはどれもこれもそのまま成就する。そして、全ての働きに正しく主のさばきが下されるので、恐れを持ちたい!