詩篇107篇 2015.4.19
107:1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
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107:2 主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、
107:3 彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた。
私たちは代価(罪の代価)によって買い取られた。そして集められた。
107:4 彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。
主は道を与えてくださった。
107:5 飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。
107:6 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
107:7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。
望ましくはないのですが、私たちは5節のようなことがある。
エレミヤ牧師もこのことに同感するそうです。
エレミヤ牧師の体験談:歩むべきクリスチャンの歩みやなすべき奉仕、行くべき教会が見えない時がありました。行く教会がないと、パンも水ももらえません。なので、6,7節のことが実感としてありました。しかし神さまの前に謙虚になって、間違えたところがあるのでは?という風に祈っていく中で、だんだんとまっすぐな道に入っていきました。正しい方向へ行くようになり、弟子の歩みにも入り、自分が住むべき町に入ってきているなぁと、今ではそのように思っています。ですから、住むべきクリスチャン生活に入らないと空しいと言えます。しかし住むべき町に入るのは恵みです。私は焦燥感と安堵感の両方を経験しました。そして入るべき道に入れれば結果OKと言えます。
6節にポイントがある。→祈って求めるのが大事。
焦燥感を感じたり、入るべき所に入っていないというときには、ぜひ求めていきたい!そうしていくときに、入るべき道を示していただける。主は真実なお方だから。
ちなみに詩篇107篇は、こういうことが繰り返し書かれている。→「変な所に入ってしまった。でも、主に叫ぶなら助けられる」ということが繰り返されている。
107:8 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
107:9 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。
これもエレミヤ牧師にとって真実となった。→クリスチャン生活が空しく終わらなかった。
107:10 やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、
107:11 彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。
107:12 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
さて、ここで次の失敗者が出てきます。
良い意味合いでも、悪い意味合いでも、主は私たちの歩みに報いられるお方。
クリスチャン生活で、皆が皆、恵みや祝福や感謝に入っているわけではない。
場合によっては、やみや死の陰を歩む場合がある。しかしそれには理由がある。
10節では、全然真理の光が見えないとか、クリスチャンになるんじゃなかったなんていう風に悩みに入っていることが言われている。その理由が11節に書かれている。
主の書かれていることに従わないときに、悩みの中に入っていく。
「さとし」は「カウンセリング」という意味合いがある。→神がアドバイスしてくださる。でも、それを侮ったゆえに、悩みに入ってしまう。
事が起きるのは、偶然とかランダム(不規則)ではない。理由や原因があり、悩みや試練に入る。でも、それは主の按配とも言える。
107:13 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
107:14 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。
107:15 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
困難に会ったとしても、だからと言って絶望ではない。
自分の歩みを反省し、悔い改めるなら、困難や艱難から解消される。
歩むべき道に入っていくときに、恵みを与えてくださる。
107:16 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。
主は青銅のとびらを打ち砕き→主に立ち戻るときに、道が開かれる。
107:17 愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。
107:18 彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。
次のパターンです。
「背きの道のため~」とあるように、罪のために悩んだ。
食物:パン、あらゆる教理
あらゆる教えを忌み嫌った、ということを言われている。
Ex:キリストの復活やキリストが神という食物を嫌う。
正しい教理を忌み嫌うと、ろくでもないことになる。
107:19 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
でも、それぞれの人が主に求めていくなら、道が開かれる。
107:20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。
みことばを送って主は助け出されることがある。
Ex:詩篇49篇(16,17節)のみことばで強められた人がいる。
107:21 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
107:22 彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。
主が助け出してくださることに感謝する。
107:23 船に乗って海に出る者、大海であきないする者、
107:24 彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。
107:25 主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。
107:26 彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。
107:27 彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。
ここでまた、別の人が登場する。
霊的な事柄で悩んだり、トラブルになったりする。
「船に乗って海に出る者、大海であきないする者」とあるように、霊的なことに携わっているときに、霊的なことに関する災いに入る、ということを言われている。
歩みが正しくないと、ろくでもない霊を掴んでしまう。
27節にあるように、感情的に乱れる。ゆえに変な霊を受けると、災いを受ける。
107:28 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。
107:29 主があらしを静めると、波はないだ。
107:30 波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
でも、正しい歩みに入っていくなら助けられ、入るべき所に入る。
私たちは霊的にかき乱されたり、感情が入り乱れることがある。
歩みが正しくない場合に、変な霊に引っ張られる。
でも、祈ることによって、焦燥感や感情的なことから解放される。そして霊的に色々とスッキリ見えてくる。
30節にあるように、エレミヤ牧師も奉仕をする際に、変な霊の波が立つことなく、静かな霊で淡々と奉仕されているそうです。
107:31 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
107:32 また、主を民の集会であがめ、長老たちの座で、主を賛美せよ。
ぜひ、主を賛美していきたい。主は賛美されるべきお方なので・・・
107:33 主は川を荒野に、水のわき上がる所を潤いのない地に、
107:34 肥沃な地を不毛の地に変えられる。その住民の悪のために。
恵みはあっても、しかしクリスチャン生活は上下がある。
それは私たちの歩みに原因がある。
災いには原因がある。
107:35 主は荒野を水のある沢に、砂漠の地を水のわき上がる所に変え、
107:36 そこに飢えた者を住まわせる。彼らは住むべき町を堅く建て、
107:37 畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、豊かな実りを得る。
107:38 主が祝福されると、彼らは大いにふえ、主はその家畜を減らされない。
「住むべき町」に語りかけがある。
本来、担うべき所へ行く。どこの教会でも良いわけではない。それぞれの人に、主からの「召し」があるから。
107:39 彼らが、しいたげとわざわいと悲しみによって、数が減り、またうなだれるとき、
107:40 主は君主たちをさげすみ、道なき荒れ地に彼らをさまよわせる。
書かれている通りです。
107:41 しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、その一族を羊の群れのようにされる。
107:42 直ぐな人はそれを見て喜び、不正な者はすべてその口を閉じる。
私たちの行いに応じて、祝福&呪いが来る。
107:43 知恵のある者はだれか。その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。
「知恵のある者はだれか」のことばに関して、「たとえ」の意味合いが使われている、と思うのが正しい。
詩篇107篇は、クリスチャン生活の真髄について述べられている。そのことを読み取っていきたい。
これらのこと、つまりそれぞれのパターンを通して、神さまは個々の人の行いに応じて報われる、というのが結論である。
主の前に正しい歩みをするなら、祝福に入る。
目に見えるところはともかく、しかし砂漠の中を歩んでいるクリスチャンや焦燥感を覚えているクリスチャンがいる。でも、主に叫び求めることにポイントがあり、それが解決策となる。
困難の中であっても主に叫び求め、歩みを糾す。→入るべき道に入る。
知恵をもって、見るべきものを見ていきたい!
レムナントキリスト教会
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