詩篇108篇 2015.4.26

 

108:1 神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。

108:2 十弦の琴よ、立琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。

108:3 主よ。私は、国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。

 

礼拝で賛美したり、ほめ歌を歌うのは正しい。

 

主に賛美することにポイントがある。

 

主のされたすばらしいわざや恵みは、ふつうにしていると消え去ってしまう。

 

Ex:時々、何も感謝しない人がいる。たとえばお母さんに朝起こしてもらったり、料理を作ってもらったり、洗濯をしてもらったりしても、感謝のことばを言わない子どもがいる。しかしこれは良いことではない。

 

神さまに対してもそれと同じでは良くない。

 

ポイント:神さまのされていることは賛美に値するので、感謝をささげていきたい!

 

108:4 あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

 

神さまの恵みは大きい。

 

本来は値しない者に与えられるのが恵み。

 

Ex:一万タラントの負債の免除。贖い、救い、赦しなど。

 

まこと:真実、真実さ、真理

 

Ex:人間関係→真の友人、そうでない人がいる。

 

しかし神のまことや真実さは、雲にまで及ぶ。

 

そして神のまことは、人のまことよりも真実。

 

エレミヤ牧師の証:主が召された時に、主が裏切られることがないということを悟った。しかし主の生涯は結構裏切られている。たしかに一時は5千人、6千人と人が集まり、ブームだった。ではあっても、そういう人たちが皆真実だったわけではない。しばらくしたら豹変した。12弟子であったイスカリオテのユダも平気で裏切っている。でも、キリストが人を裏切ったことは皆無。さいごまで誠実を尽くしている。ユダのことも、さいごの晩餐まで呼んでいる。主の真実さ、真を感じる。奉仕においても主の誠実さをひしひしと感じる。啓示を任されたのち、ずっと啓示が来ている。Ex:宮の崩壊、仮庵の祭りなど

 

証を通して言いたいことは・・・こちらが召しに忠実なら、裏切られることはない。

 

それはお一人一人にとっても同じ。

 

そして自分でそういうことを経験していく中で、人にも伝えられる。

 

108:5 神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられますように。

108:6 あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。

108:7 神は聖所から告げられた。「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。

108:8 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。

 

「ユダはわたしの杖」とあるように、日本はユダ族の血を継いでいるのでは?

 

ユダが「杖」だと言っている。

 

「杖」について見てみましょう。

 

参照 創世記49:10

49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

 

「ユダ」と「杖」が関係している。

 

イスラエルの王権(一番偉い)は、ユダにある。

 

ユダはわたしの杖(KJV):ユダは法(律法)を与える者

 

どの教えを守り、どういう方向を歩んでいくか?を12部族に語っていく役目。全世界、キリスト教会において、歩むべき方向、守っていくべき教えを語る。→日本においていずれ成就すると思われる。

 

キリスト教会で今、歩むべき方向が分からなくなっている状態。

Ex:宮の崩壊、艱難時代の備えなど。

 

ユダが見本を示していく。世界のクリスチャンに対してなすべき方向、正しい方向を語っていく。

 

レムナントキリスト教会はもしかすると、その奔りを担っている可能性があるかも??

 

108:9 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテの上で、わたしは大声で叫ぼう。」

 

大声で叫ぼう(KJV):跳び上がる→扱いがひどい

 

モアブ:父の種→イスラエルを妨害しているので、良い扱いではない。

 

どういう民か?で、扱いが変わる、というのをひとつ覚えておく。

 

「モアブはわたしの足を洗うたらい」について見てみましょう。

 

参照 ヨハネの福音書13:310

13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、

13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

 

足を洗う→クリスチャンの歩みのひとつ

 

ここで主は、弟子たちの足を洗った。

 

その時の問題:

 

6節→ペテロはこのことにためらいがあった。8節→ペテロはこれが正しいと思って言った。でも、9,10節で言われているように、足を洗ってもらうのは必須。

 

これはたとえ。「水」は霊的なことなので、霊的なたとえ。そして毎日主に洗ってもらうのが正しい。

 

たしかに日常で罪を犯さないのが望ましい。でも、普通に歩いていると汚れてしまうように・・・どうしても罪を犯してしまう。そのことを主はご存知。ゆえに足を洗ってもらわないといけない。

 

罪をそのままにしてはいけないので、洗ってもらう。

 

主はそのことを見越して言われている。

 

ポイント:罪を犯したら、その都度悔い改めてきよめられていく。

 

②毎日洗ってもらうけれど、「申し訳ない」という思いを多少は持つ。そして主の前に悔い改めて洗ってもらうのは、クリスチャン生活のリアルな現実でもある。

 

9節→ペテロは足以外も洗ってください、と言った。でも、主はこれも拒否している。

 

全身きよい→バプテスマを受けて救われているので、罪を犯しても、全くはじめからやり直す必要は無い。

 

Ex:ホーリネスでは「救いだけではダメ、きよめが必要」と言っている。しかしそれは違う。

 

罪を犯しても、救いの根本が変わるわけではなく、足だけの問題だと言っている。

 

ポイント:極端になってはダメ。程度をおさえる。そうするなら、普通に歩んでいける。主は私たちのリアルな実態をご存知だから。

 

108:10 だれが私を要塞の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。

108:11 神よ。あなたは私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。

108:12 どうか敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。

108:13 神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます。

 

13節のようなことは理解しておきたい。

 

奉仕に関して、主によって勝利を得られることを求めていく。そうするなら、人数は少なくても、ポイントをついた働きができるようになる。

 

自分の力ではなく、神の力に頼って奉仕をする。そうすると用いられる。

Ex:艱難前携挙説の旗色が悪くなったり、獣の国がアメリカだということを理解する。

 

ゆえに、あらゆることを主によって勝利を得たい!