詩篇113篇 2015.5.31

 

113:1 ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

113:2 今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

 

「主のしもべ」ということばがよく出てくる。意味があって出てくる。

 

そして、しもべの歩みにポイントがある。

 

本当の意味で、神のわざが理解できるのは、しもべとして歩む人。

 

主も、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり~」と言っている。

 

しもべの歩み→歩むべき尊い道。ピント外れではない道。そして永遠の報いに通じる。

 

113:3 日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。

 

「日の上る所」とは、地図で見るなら、日本がそう。

 

そして、「日」とは、「太陽」のことも言われている。また、真の意味の太陽は、キリストご自身。キリストは光を照らすお方だから。

 

あらゆる真理は、太陽であるキリストから来る。

 

キリストこそ、太陽の生涯。

 

参照 マタイの福音書4:1316

4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。

4:14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、

4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。

4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

 

:太陽の光

 

ここで、キリストが「太陽」として書かれている。

 

キリストを通して、偉大な光があらわされたことを書いてある。

 

参照 マタイの福音書27:45,46,50

27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。

 

イエスの生涯が終わるとき、昼間なのに、太陽が沈んで真っ暗になった。

 

主の公生涯と終わりについて語られている。→はじめは光があった。

 

つまり、ここで、イエスこそ太陽である、ということを語っている。暗示している。

 

詩篇に戻ります。

 

キリストは、生涯のはじめから終わりまで、御名が崇められるような歩みをしていた。

 

そして、私たちにとって、模範のような歩み。

 

人間的には、受け入れられなかったかもしれない。

 

キリストは神の働きを優先していた。それゆえ、神の働きは進んだ。そう、信仰の完成者であった。

 

そういう意味で、クリスチャンの歩みは、シビアな歩みだと言える。

 

ではあっても・・・主の御名が崇められるような歩みにポイントがある。

 

113:4 主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。

 

主ご自身が、トップの所におられる。

 

113:5 だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、

113:6 身を低くして天と地をご覧になる。

 

高い所にいるから、絶対に動かない!とは、言っていない。

 

ある意味、謙遜になって、天地(教会)をご覧になる。あるいは、実地体験(人の姿をとって、地上に来られた)をして学ぶ。

 

参照 ピリピ人への手紙2:39

2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

キリストの生涯で、詩篇のことが実現している。

 

私たちのからだ:卑しいからだ。無力。ゆえに主が人のからだをとる、とは大謙遜なこと。

 

そして、今は、私たちのためにとりなしてくださっている。

 

主は、人としての歩みをした、ということにポイントがある。

 

実際に行うことが大事。

 

主の私たちに対するケア、とりなしは、実際に身をもって行ったこと。

 

ゆえに、キリストのさばきは正しく、公平に行われる。

 

身を低くして、経験され、必要な助言やとりなしをした。

 

113:7 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、

113:8 彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。

 

世の中で、弱い人はずっと弱い。そして貧しい。

 

そして、なかなか挽回できない。

 

でも、主にあっては、そうではない。

 

主に正しく着き、忠実に行っていくときに、どこかで逆転がある。

 

クリスチャン生活の中においては、能力に関係なく、こういうことが起きる。

 

ゆえに、たとえこの世で報われなくても・・・人間対人間で、考えない。

 

やもめのように、持っているものの中のすべてをささげていくときに、逆転がある。

 

神の前の歩みは、往々にして逆転がある。

 

誠実をもって主に仕えていくときに、場合によっては、啓示が開かれる。

 

113:9 主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせる。ハレルヤ。

 

クリスチャン生活でも、子を産まないのは、悩み。Ex:サラ

 

肉体の子どもを産むかどうかは別として・・・信仰の子を産む、ということを言われている。

 

こういう面でも、逆転が起きてくるのでは?と思う。

 

ゆえに人間的な事柄で、すべてを決めない。

 

子を産まない人が、いずれ産む、ということも成就する。

 

こういうことも、信仰を持っていきたい。