詩篇116篇 2015.6.21
116:1 私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
116:2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
神を信じていくときに、私たちの祈りにこたえてくださり、願いを聞いてくださる。
私たちが主を呼び求めて、祈ることが大事。
けれども、時々、神が聞いてくれないこともある。私たちのほうに、「罪」がある場合は、聞いてもらえない。
ポイント:罪から離れて、御心をおこなっていく→祈りがきかれる。
Ex:レムナントの働きに関しても、大なり小なり、神さまがお祈りを聞いてくださり、道を開いてくださる。たとえば、今年の春からメール便が値上げをすることになり、これは困った・・・とおもって皆で祈ったところ、道が開かれた。安い配送で、できるようになった。
必要に応じて祈っていくときに、主はこたえてくださる。
神の前に求め、祈りにこたえてくださる。
ゆえに、必要なことは求めていきたい。
116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
116:4 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」
こういうところも通るので、主を呼び求める。
クリスチャン生活の中で、祝福もある。でも、色々と大変な中を通るときもある。しかし、そういうときも、祈り求めていきたい。
116:5 主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。
116:6 主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
わきまえのない(英語):シンプル
そして、主は、わきまえのない者を守られる。
あまり深く物事を考えられないとしても、ダメということはない。
この世の知恵がなくても、主が守ってくださることを期待していきたい。
エレミヤ牧師の証:単純なクリスチャン生活を送るようにしている。単純な歩みをしていくときに、色々な真理が見えるようになる。たとえの理解を尊重するようになって、命(永遠の命)に近付いていった。大事なことを教えられるようになった。
ポイント:主が守ってくださることを信じていくときに、現実になる。
116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。
116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。
116:9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。
116:10 「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。
悩んでいても、主を信じ続けることが大事。
116:11 私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。
人は結構、偽りをいう。間違いがある。
でも、みことばは正しいので、偽りに入っても、正しい所に戻れる。
ポイント:神のことばに偽りは無い。
116:12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。
116:13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。
116:14 私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。
主に誓っていることを、主に果たす。
何を誓ったのか?
新約のイスラエルの祖先=ヤコブ、そして彼は誓っている。
ゆえに、私たちも特別意識しなくても、誓っていることになる。
参照 創世記28:20‐22
28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、
28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、
28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」
少し、順にみていきたい。
28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、
ここにおいて、ヤコブは誓っている。そして、新約のイスラエルである私たちも、誓っていることになっている。
28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」
「十分の一」をささげることが、ヤコブの誓い。
この誓いを果たすときに、20節に書かれている祝福がくる。
「十分の一」とは、収入の「十分の一」もそうだけれども、しかし、それだけではなく・・・たとえば、マラキ書に、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て」とあるように、私たちのあらゆるものにおいて、「ことごとく十分の一をささげなさい」といっている。
ポイント:収入と共に、私たちの神への働き(奉仕)もささげる。
もちろん強制ではありませんが、しかし、自分自身の歩みや時間をささげていくときに、祝福になる。
エレミヤ牧師の証:ある牧師が、「十分の一」のことを話していた。そのときに、一日は24時間あるから、その十分の一の「2.4時間」をささげたらどうだろうか?といっていた。もしくは、睡眠時間を8時間として、それを差し引いた時間の十分の一、つまり「1.6時間」をささげたらどうでしょうか?ということをおすすめしていた。そのことを聞いて・・・みことばを読んだり、祈ったり、奉仕をしたりと、自分のエネルギーをささげるときに、恵みが大いにあるかも?!とおもった。
これらをおこなっていくときに・・・20,21節「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、」とあるように、主が共にいてくださり、旅路(天の父のいる所に向かう旅路)を主が守ってくださる。
また、惑わしやインチキからも守られる。パンが与えられ、みことばのききんからも守られる。そして、着物(義の衣)も与えられる。
28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、
私たちは、「父の家」に向かっている者。
たしかにヤコブはラバンの家に行ったが、しかし、天の父の家に戻りたかった。
私たちが誓願を守るなら、守りや助けが与えられる。
ゆえに、「十分の一」をささげたほうが良い。→お金&献身の両方
28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」
教会に関連して、このような恵みがある。
私たちが誓いの義務を果たすなら、祝福になり、入るべき所に入れる。
そして、神との契約は、私たちが得をするようになっている。
116:15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。
―
116:16 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。
しもべとしての歩み方にポイントがある。
仕える人にポイントがある。
今の時代、こういうことは、流行らないかもしれない。
でも、神の前では、損のようなことが「得」だったりする。
主も、弟子たちの足を洗った。
こうした歩みをするなら、恵みを受ける。
「私たちのかせ」も、解かれていく。
かせ:逃げないように止めておくもの。不自由にさせるもの。
実際に牢屋に入ったり、くさりにつながれなくても・・・でも、罪のくさりにつながれている、なんていうことがあるかもしれない。
でも、「かせ」があったとしても、しもべの歩みをしていくときに、解放されていく。
色々な「かせ」がある。
Ex:人のことが気になる。人前が苦手。これらはいずれも不自由なもの
主に仕えていく中で、そういうことから解放されていく。
エレミヤ牧師の証:色々な「かせ」が解かれた。人前で話すのが苦手だった。でも、仕えていく中で、だんだんと自由になっていった。それは、しもべとしての歩みをするようになったから。そして、「かせ」が崩されるようになった。
ポイント:しもべとしての歩みをしていく中で、「かせ」から解放&自由にされる。
116:17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。
116:18 私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。
116:19 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。ハレルヤ。
主の前に誓いを果たしていく→損のようで、祝福に入る道
レムナントキリスト教会
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