詩篇122篇 2015.8.16
都上りの歌。ダビデによる
都=エルサレム
122:1 人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。
122:2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。
皆でエルサレムに上っていく。いわば祝福の時。
「エルサレム」とは、「平安」という意味。
主の家、エルサレム:教会
ちなみに黙示録に出てくる「エルサレム」も、「教会」のこと。ゆえに新約の教会の預言。
門のうちに立っている(KJV):門に入っている
「門」について。
「門」は、「いのちに至る門」のことを言われている。
参照 マタイの福音書7:14
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
この箇所から、「いのちに至る門」&「道」は、「小さい」とか「狭い」と言われている。
たしかにエルサレムの門を通ってそこを入るのは尊いこと。そして主が教えてくださるなら、「門」を見出し、入る。
たとえば、レムナントキリスト教会も主の憐れみによって、「小さい門」&「狭い道」を見出している。Ex:艱難前携挙説は間違い。教会は背教化する。
ゆえに例外的に「小さい門」や「狭い道」に入りたい。
122:3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。
まとめられる(原語):集められる、集合する
教会の中に一致があったり、共に集まり、教会として成り立っている。
エレミヤ牧師の証:教会を追い出された時、他の教会へ行くという導きは無かった。家族だけで礼拝を始めたら、人が多少来るようになり、それが良い結果になった。セミナーで一緒に司会や賛美をしたり、と。ニュースレターもそう。皆で一致をもって働けるようになり、働きが広がっていった。共に支え合うことができている。
ゆえにこのことは大事。
新約で「教会」は大事。
どんなにすばらしいクリスチャンでも、一人でやっていくことに御心は無い。
そういった意味合いでレムナントキリスト教会は門を開いているので、行く教会の無い人や御心を感じた方はぜひお越しくださいね!
一人でやっていくのは違う。できるかぎり、教会のパターンで歩む。
122:4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。
「あかし」について。
参照 出エジプト記25:16
25:16 わたしが与えるさとしをその箱に納める。
さとし:あかし
他にも「あかし」ということばが出てくる。
参照 出エジプト記25:22
25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。
あかしの箱:契約の箱
あかし:証言、証人。このことはⅠヨハネの手紙5章の証言するものと関係がある。ヘブル人への手紙にあるように、私たちがさばきの座に立った時に証人が大事。
契約の箱=神の臨在
御霊が私たちの働きの証言をする。
死後、証言してくださる方がいる。
私たちが御霊に従って歩むか?が大事なこと。
クリスチャン人生に関して・・・証言者は「御霊」なので、御霊の声に聞き従っていけば良い。
エレミヤ牧師の証:神学校に行っていた時に大きな岐路に立った。そこの牧師から「注解書を買ってください」と言われた。その時に買うべきかどうかを主に聞いた。でも、「買いなさい」という声は聞こえなかった。そして買わなかった。しかしそれは良い結果をもたらした。その後、啓示が開かれるようになった。
そのように、御霊の声に従っていくときに良い結末をもたらすこととなる。皆さまにとってもそれは同じ。
122:5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。
「さばき」のことが言われている。
聖書の語りかけとして・・・「その日(さばきの日)」が大事だということを言われている。
さばき:裁判
一般的に、さばきの座に立つ、というときに、「被告」と言われる。
その時に裁判長、証人がいる。
ダビデが王としてさばく。
そして裁判をするのは、王であるキリスト。
参照 ヨハネの福音書5:27‐30
5:27 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
子:キリスト
キリストによって私たちはさばきを受ける。
なぜ、キリストに裁判の権利を与えられたのか?→人の子だから。つまり人間の経験をしたから。
同じ経験をした人がさばく。ゆえに御使いや神にはさばく権利が無い。
キリストは人としての経験をしたので、さばく権利がある。
参照 マタイの福音書12:41,42
12:41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
12:42 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
一体誰がさばく権利があるのか?についてこの箇所でも言われている。いずれも説教を聞いて悔い改めたり、ソロモンの知恵を求めた人たちがそう。そしてここでも、同じ経験をした人にさばく権利があることを言っている。
ヨナよりもまさった者:キリスト
なぜ、キリストかさばきをするのか?キリストだけにさばく権利があるのか?
キリストは私たちと同じ肉体を持っていた。そして肉体を持つ中で、聖書を読み、祈りをし、神の御心を全うしたから。私たちと全く同じ肉体だった。
そういう意味で、主はさばく権利がある。
ポイント:私たちは例外なく、死んだあとにさばきを受ける。そしてⅠヨハネの手紙の中には「あかしするものが三つある。」とあって、KJV訳では、「父とことばと霊」とある。ここにキリストの名前が入っていない。それは裁判官として出てくるから。
イエス・キリストは、私たちと同じ条件で歩まれた。なおかつ御心を行ったから裁判をする権利が与えられた。
ちなみにキリストの歩みとは?どんな歩みか?と言うと・・・山上の垂訓や五千人の給食などをはじめ、一時的には人気があった。しかしさいごは異端とかカルト扱いを受けたりして、人の評判も含めてすべてのものを失った。そんな状況の中でも、キリストは神さまの御心を行い、十字架の死に至るまで従順に従った。
それゆえに、私たちに対しても・・・色々と苦難や困難が許されても主に従っていくか?キリストのようにこの世での持ち物や名声や評判を失って、それでも御心を行っていくか?ということが問われている。結論としては、主のように歩まれていくのがベスト。また、正しく主に従っていくなら私たちにもできる。なぜなら、イエスさまにもできたのだから。
122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
122:7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
122:8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」
122:9 私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。
「平和」ということばが、聖書でよく使われている。「平和」とは、「シャローム」(ソロモン)のこと。
聖霊が存在するように、聖霊に関連する祈りが的をついている。
聖霊にとどまっているかが大事。
聖霊が教会にとどまるように、その声に聞き従えるように求めていきたい。そのことを最優先するのが良い。
聖霊のみを頼りにしていく歩みに御心がある。
聖霊がとどまるときに恐れることは無い。大事な啓示が開かれたり、ポイントのことを教えられたりする。ゆえに聖霊がとどまることが尊い。そしてこのことは、教会の働きの土台ともなる。
レムナントキリスト教会
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