詩篇124篇 2015.8.30

 

都上りの歌。ダビデによる

124:1 「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。

124:2 「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、

124:3 そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、

 

この世において、「多勢に無勢」ということばがあり、それだと人数の少ないほうは大抵負けてしまう。人間の世界はたしかにそうである。けれども信仰にあっては、そうとはかぎらない。

 

私たちが主の前に立っているときに、非難があっても最終的には助けられたり守られたりする。

 

エレミヤ牧師の証:終末の啓示やたとえが示されるほど、以前行っていた教会で、だんだんと立場が危うくなってきた。皆が避けるようになった。教会の中に併設された神学校にも通っていたのだか、話しかけてきてくれる人もいなくなり、教会へ行くのも嫌になった。しかもだんだんと周囲の人の言い方も厳しくなった。その教会では、誰にも理解されなかった。でも、エレミヤとして主に従った。そうしたら後に立場が逆転した。その教会では当時も今も、二段階携挙節を信じている。一方、エレミヤ牧師のほうは艱難前携挙説が誤りであることをはじめ、終末のありとあらゆる啓示が開かれるようになった。つまり、主が味方だったので真理が開かれ、見るべきものを見ている。

 

ポイント:人の評判でもない。又、皆が理解している共通のことでもない。また、一時的には困難や非難の中に置かれるかもしれない。でも、逆転して命の道に入る。

 

私たちが主の側に立っているかで、色々と変わる。

 

主の側は困難がある。しかし、色々と変えられていく。

 

124:4 そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。

124:5 そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」

 

「水」について。

 

聖書には、「御国の奥義」というものがある。

 

:霊的な事柄に通じるもの

 

たとえば、聖霊が水にたとえられている。

 

参照 ヨハネの福音書7:38

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

 

けれども、「荒れ狂う水」と書かれているように、ここでの水は、「悪霊」のことを言っている。

 

世の終わりの問題:ノアやロトのような時

 

ノア:大洪水

 

そして、今は霊的な惑わしが来る時。

 

ゆえにここで言わんとしているのは、もし、主が味方でないなら、霊的な惑わしに入る、ということ。

 

しかし主に着いていくなら、惑わしから逃れる。

 

エレミヤ牧師の証:過去、色々な教団へ行った。そしてその時々惑わしに入り、変なものを掴んだ。でも、真理を求めていったときに、主が助けてくださった。ブラザレン系の教会へも行った。その教会では、J..ダービーの二段階携挙説とか艱難前携挙説のことが言われていた。しかし、これは惑わしであった。また、牧師を否定している教理を受けて入れていて、そのため牧師がいないので、きちんとしたメッセージも無かった。でも、そういう中できちんと歩んでいきたいと思っていた。祈りもしていた。そんな風に忠実に歩んでいく中で、色々な惑わしから逃れた。ゆえに惑わしは避けられないということを理解した。でも、主が味方であるときに、たとえ惑わしに入っていても致命傷にならなかったり、守られたりする。そして当時はダービーの本を沢山買っていた。しかしいざダービーの本を読もうと思っても、なぜだか思うように読めなかった。でも、このことが良い結論をもたらした。主が惑わしに入らないようにとどめてくださったように思った。こういったことを通して・・・主に着くときに惑わしから免れることをリアルに体験した。

 

124:6 ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。

 

惑わしの霊を下す敵がいる。

 

しかし主が味方の時に、奇跡的に免れる。

 

惑わしの霊は、悪意を持ってくる。

 

エレミヤ牧師の証:過去、某クリスチャンを通してひどい目に会った。一時的ではあったが、惑わされた。しかしそれは良い学びとなった。その時に、霊は個別に人を惑わす、ということを理解した。サタンのほうが人よりも頭が良いことを知った。そしてあちこち引っ掛かったことが、今では益になっている。

 

124:7 私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。

124:8 私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。

 

:霊的なことのたとえ

 

「私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。」とは、霊的な惑わしから守られた、ということを言っている。

 

ポイント:主が私たちの味方であること。主の前に忠実に歩んでいくときに、助けや守りがある。

 

今は霊の惑わしがリアルに個別に来る。サタンがレベルや段階を超えて、クリスチャンにそういったことを掛けることが許される時代。

 

サタンはその人が好きそうなことや興味を持っていることを存分に用いる。

 

参考までですが・・・エレミヤ牧師の知り合いのクリスチャンが、かつてエレミヤ牧師が入ったような惑わしと同じような惑わしに入っている。その人はHPでブログを書いている。そして最近言っていることが変わってきていて、すっかり惑わされている。ある日、突然神の霊が来て、長年の花粉症や耳鳴りが良くなったとか、聖書の理解が抜群になったなどと書いている。本人は、それを通して神の恵みを受けていると思っている。でも、これは過去エレミヤ牧師に来た惑わしと似ている。

 

ポイント:しるしやふしぎがあっても、それをそのまま信じてはダメ。

 

その一例として、黙示録に書かれているラオデキヤの教会はまさにそうだと言える。自分たちは富んでいると思っている。しかし、神の前にはみじめで裸であると言われている。

 

そんな風に、個々のクリスチャンが狙い打ちされている。なので、外観では分からない。しかも聖書的なことを言ってくる。

 

7節にあるように、こういうこと(惑わし)から逃れていきたい。

 

今はサタンが人を自由に惑わす時代。でも、幼子のように主に頼っていくときに抜け出すことができる。