詩篇128篇 2015.9.27
都上りの歌。ソロモンによる
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128:1 幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
KJV:主を恐れる者は幸いである。彼の道を歩む。
主を恐れる人と、そうでない人がいる。でも、主を恐れて歩む人は幸い。そうすると結果として、主の道を歩むことが出来る。
これは裏返すと、皆が皆、主の道を歩んでいるとは限らない、ということになる。
主を恐れないと狭い道に入れない可能性がある。
そもそも主の道を見出すのは難しい。どこに正しい道があるのかを見出すのが難しい。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです」(マタイの福音書7:14)と書かれている通りである。
でも、主を恐れていくときに見出せる。ゆえに主を恐れる歩みにポイントがある。
そして主はシビアなお方で、本当に主を恐れているのか?口先だけではないのか?ということを試されるお方でもある。
エレミヤ牧師の証:以前の教会で、そこに併設されていた神学校で選択があった。試験があり、及第点を取れない人はその神学校をやめてもらうことになっていた。そこの神学校では、再臨は二回あるという教理で、艱難中携挙説を推進しており、このことを認めない人は、やめてもらうことになっていた。その時に一瞬、もし、首になったらどうしよう?と思った。まさに試しがきた。神を恐れることを選択するのか?主を恐れると人間的には損をする。そして神を恐れた結果、教会&神学校を追い出された。でも、結果として神の道を歩んでいくことが実現した。今の時代に最も正しい主の道に入ることが出来た。他の人が見ていない正しいものを見るようになった。反キリストが教会でキリストの座に着くとか、獣の国がアメリカとか、教会の崩壊&背教等について、理解することが出来た。そういう意味で、自分は主の道について先端を行っている。主を恐れた結果、歩むべき道に入って行った。たしかに主を恐れることに関しての試しが来る。でも、信仰の道を歩むことにポイントがあると思う。
128:2 あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。
主を恐れた人は、自分の勤労の実を食べることになる。
でも、クリスチャンであっても、人ばかり恐れていると、必ずしも自分の勤労の実を食べるとはかぎらない。
今回の詩篇の箇所全体は、「主を恐れる」ことについて語られている。そして主を恐れる人についてのことを語っている。
「勤労の実」について。
クリスチャン生涯というのは、働いたからといって、勤労の実を食べるかどうかは分からない。骨折り損のくたびれ儲けという類いの奉仕がある。
エレミヤ牧師の証:昔、自分の実の結ばなさに絶望感を覚えたことがあった。でも、実を結ばせるようになりたいと思った。けれどもその時、教会に属していなかったので、毎週日曜日にチラシを配ったり、病院で伝道をしたりした。でも、ほとんど実を結ばなかった。このことから、神の働きは必ずしも実を結ぶとはかぎらない、と思った。でも、神を恐れていくときに、結ばせたり、働きが残ったりする。そして弟子の歩みをするようになってから、実を結ぶようになった。
神の前に一生懸命やったからといって、実を結ぶとはかぎらない。
でも、主を恐れていくときに変わってくる。
128:3 あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。
実を結ぶことが、結構大事なことだということをここでも言われている。
「実」とは、ガラテヤ人への手紙に書かれている「御霊の実」のことを言われている。そして主を恐れていくときに、御霊の実を結ぶようになる。
ポイント:御霊の実を結ぶことはクリスチャン生活に必須なので、心掛けていく。
参照 マタイの福音書3:7‐10
3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
8節の「実」は、「御霊の実」のこと。
そして10節では、御霊の実を結ばないと大変なことになることを言われている。
一見、オーバーに聞こえる。でも、書かれていることは、皆実現していく。
歩みを糾す、悔い改めが大事。ゆえに御霊の実を真剣に求めていかなければいけない。そうでないと、10節のことが実現してしまう。
ちなみに10節に書かれていることは、後の世のことではなく、現世のことを言われている。以下、みことばがそのことを証している。
参照 マタイの福音書13:40
13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
「この世の終わり」とある。そしてそれは、次の時代のことではない。
ゆえに、10節のことは現代のことで、来世のことではないことが理解出来る。
今、まさに起きることを言っている。そして「火に投げ込まれる」とか「火で焼かれる」とは、来世の地獄のことではなく、惑わしの霊のことを言われている。
おかしな霊に引っ掛かっている人がそう。火で焼かれている。惑わしの火で焼かれている。そうなってしまうのは、良い実を結ばないから。
肉の実ばかりを結んでいる人は、惑わしの火に投げ込まれる。しかも今、このことが起きている。
火で焼かれている人は、自分はそう思っていない。
良い実を結んでいない人は、火で焼かれる。ゆえに御霊の実を結ぶことは急務と言える。賜物よりも、御霊の実を結ぶことをどんどん求める。
128:4 見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。
128:5 主はシオンからあなたを祝福される。あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。
128:6 あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。
6節では、子どもの子ども、すなわち孫を見ることが言われている。
クリスチャン生活において、自分の子ども(霊の子ども)を見るのは幸い。主を恐れていくときに、そういう祝福がある。
主の働きをしている以上、霊的な子どもを見られたほうが良い。
エレミヤ牧師の証:主を恐れていったときにそうなった。メールマガジンを毎日10年以上発行した。そうしていく中で、キリスト教会が少しずつひっくり返されている。断定はできないが、しかしもしかするとレムナントキリスト教会の働きに影響されたのでは?と思う。主を恐れて奉仕をした結果、報われたのでは?と思う。
霊の子どもを見ることに関して、見える形でも実現していくかも知れない。けれども必ずしも見える形とはかぎらない。どこか知らないところで、影響を受けている人もいるかも知れない。
ポイント:主を恐れて働きをしていくきとに、影響される人が出てくる。
レムナントキリスト教会
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