詩篇134篇 2015.10.25

 

都上りの歌

 

 

134:1 さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

134:2 聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。

134:3 天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。

 

「夜ごとに」ということばに語りかけがある。そして、「夜、主に仕える」ということについて考えてみたい。ちなみに聖書で言う「夜」とは、一体どういうものなのか?創世記を見てみましょう。

 

参照 創世記1:4,5

1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

1:5 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

 

上記に書かれているように、聖書の定義で「夜」は「やみ」のことを言われている。そして「昼」についても言われており、「昼」は「光」と呼ばれている。それから、なぜ、教会は「燭台」とも呼ばれるのか?それは、「光」(福音の光)が出る場所だから。そして、「光」(福音の光)は良いものであり、神さまに喜ばれ、ポイントが高い。反対に「闇」は「光」が無いので良くない。すなわち、「夜」とは、良くない意味合いだと言える。「闇」に関して、イエスさまも言われているので、その箇所を見てみましょう。

 

参照 ヨハネの福音書12:35,36

12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

 

ここでは、「やみが襲う前に光を信じる」ということを言われている。光がある朝、つまり光が常識の時に主に仕えていくのは割と簡単なこと。右を向いても左を向いても光を受けている人ばかりだと、主に仕えていくことにそれほど苦労は無い。でも、キリスト教会に闇が覆う時が来る。けれどもその夜に、主に仕えていくしもべに祝福がある、ということを詩篇の1節では言われている。そういう時に、つまり闇が覆っているという時に、特別な意味合い、大きな意味合いがある。

 

たとえば、教会で同性愛が迎合されている。これは、闇の教会であり、真理の光が放たれていない、と言える。そのような教会に通っている某クリスチャンが、エキュメニカル(プロテスタントとカトリックの合同)について指摘したところ、論争を掛けられたそう。そういう意味で、闇の中で仕えていくのは大変だと言える。

 

ちなみにレムナントキリスト教会も、闇の中を仕えていく奉仕をしている。今、レムナントキリスト教会で語っている艱難後携挙説や教会がさばかれる、という教理は、かつては普通だった。しかし今現在では珍しい。それは今がまさしく闇の時だから。

 

話は詩篇に戻りますが、3節の「天地」とは、「教会」を指す。そして主からの恵みや祝福は、たとえ闇であっても真理を伝えていく人にある。イエスさまの時も闇だった。神の民が真理を受け入れなかった。残念ながら、今の時代も同じなのでは?と思う。そういう意味で、私たちもイエスさまと似たような運命を辿ると思われる。イエスさまも光の無い時に、真理を語っていった。残念ながら、新約時代の終末も光が無いゆえに、真理を語ったところで多くの人々には受け入れられないかも知れない。しかしそういう中にあっても、神さまからの祝福を期待していきたい。繰り返しになりますが、私たちは夜、主に仕えていく、ということは正しく見ていきたい。