詩篇139篇 2015.11.29
指揮者のために。ダビデの賛歌
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139:1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
神御自身が私たちをどのように御存知であるか?ということを言われている。物理的な事柄において・・・勿論肉体のこともそうですが、「私の道をことごとく知っておられます。」とあるように、信仰の歩みに関しても、神さまは全て御存知。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
私たちも誰かが話をする前にこういうことを発するのでは?と、すでに分かっていることもありますが・・・しかし、神さまも私たちがしゃべる前から私たちのことを分かっている。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
139:6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
私たちの歩みも働きも、神さまは皆御存知。
139:7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
139:8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
139:9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
139:10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。
物理的な面においてもそうですが、信仰的な事柄に関しても、全て神の手の中に私たちはいる。
139:11 たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、
139:12 あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。
139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」とあるように、神さまが私たちを造られた。
139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。(KJV訳):私は素晴らしく造られました。あなたのわざは素晴らしいです。
私たちは人間として素晴らしく造られた。たしかに人体、たとえば目や耳も素晴らしい。しかも自転車で走行したり、時速100kmというスピードにも順応出来たりもする。それだけではなく、飛行機やロケットを操縦することも出来る。すなわち、あらゆることに対応出来る。つまり肉体的に、どれもこれも対応出来るように創られた。そしてそれは、素晴らしい神さまの設計によって出来た。
そういったことと同じように・・・信仰的にもそう。参考までにですが、こういうみことばがあります。
参照 Ⅱコリント人への手紙5:17
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
上記のことばは、私たちは肉体だけではなく、内面的なものもキリストによって、新しく造られた、ということを言われている。それも素晴らしく造られる。
エレミヤ牧師の証:キリストを信じるようになってから、新しく造られるようになった部分が沢山ある。自分としては元来、特別な才能は無かったように思う。しかし主にあって新しく造られていったときに、主のお役に立つようになり、必要な啓示も与えられるようになった。たとえば昨日の弟子訓練の時に学んだ「バビロン」についてもそう。このことに関して・・・アメリカのおかしな教理や霊(変なリバイバル)を掴むと、反キリストに引っ張られていくことを理解した。しかも今、バビロン捕囚が完了しつつあり、バビロンへ連れて行かれた人は、「約束の地」(天の御国)から引き抜かれていることを悟った。このようなことを理解したのは、新しく造られたから。ゆえに主に期待して、求めていきたい!そのことを信じて受け入れるなら、新しく変えられることが実現し、新創造が出来上がってくる。
139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
「あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」について、人間の「DNA」のことだと言う人がいる。たしかに私たちの性格、髪の毛の色、体型等、すべて「DNA」に書かれている。そういう意味で、神さまが肉体を造る、というのは生物学的なことでもある。しかしこのことに関しては、信仰的な意味合いもあるので、それも見ていきたい。
私たちは新創造、すなわちクリスチャンになる前からすでに、クリスチャン生活の歩み等、全てのことが書き記されている。たとえば預言者イザヤは、「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。」(イザヤ書49章1節)ということを言われている。このように・・・私たちは自分自身で歩みをしているように思っていても・・・しかし実際には全て書き記されている。
たとえばパウロに関してもそうだと言える。パウロは働きに召される前に、同胞のクリスチャンを迫害して死にまで至らせたことがある。その後、主に声を掛けられて、使徒として召されたのではあるが・・・けれどもクリスチャンを迫害した、というハンディがはじめからあった。しかしこのことは、パウロが決して高ぶることの無いように・・・という神さまの配慮だった可能性がある。きっとそういったことも神さまの計算の範囲内のことで、恐らく書物に書き記されていたと思われる。事実、パウロは高ぶりたくても、そうは出来なかったし、ならなかった。「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」(Ⅱコリント人への手紙12章7節)ともある。このことばは、パウロが言われたことですが、こういうことからも、まさに神さまのご計画の一部だったのでは?とも言える。
さらに、彼はこうも言われている。「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒の働き20章4節)と。そのように・・・私たちに関しても、「行程」が神さまによって決められていることが理解出来る。たとえばエレミヤ牧師が多摩川のほうへ散歩しに出掛けた時のことですが・・・いつもはサイクリングコースになっている土手の所に、その日はロープが張ってあったそうで・・・どうもそれはマラソン大会のためであった。そして、ランナーが走っていた。その人たちもコースが決まっていて、そのコースに沿って走っていく。つまりコースは予め決められている。
そういう意味で・・・神さまがパウロに、「この時に生まれて、新生して、こういう伝道をして~」という風にコースを決められておられる。そのように・・・神さまが個別にコースを定めている。そういうことが全部書き記されている。そしてそれをきちんと走っていくことにポイントがある。そうするなら、恵みに入る。つまり神さまが定めた道を歩んでいくことに御心がある。「私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。」(使徒の働き26章19,20節)と言われている通りで、パウロもそうだった。それゆえに神さまが定めた方法を求め、探り、行っていくときに恵みに入る。
エレミヤ牧師の証:人生の所々で「英語」という語りかけを受けた。また、それぞれの教会で転機があり、その時に主が「英語」ということを言われた。社会人だったので仕事をしながら勉強して、今の奉仕に入った。そういう意味で、自分のコースがある、と思った。
ポイントは・・・それぞれの人に示された道を歩むこと。そうすると、のちに祝福に入る。そして大事なことは・・・それぞれの人の歩むべき道が書かれている。しかも洗礼を受ける前からなので・・・正しく歩んでいくときに、祝福に入る。
139:17 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。(KJV訳):あなたの私への思いは、何と素晴らしいことでしょう。
このことも、私たちに関してのことを言われている。私たちに対して持っておられる神さまの御計画&予定は素晴らしい。時として・・・私たちクリスチャンはネガティブな思いになることがある。神さまは憎しみを持っている、なんていう風に思うことがある。でも、それは違う。神さまの思いは素晴らしい!と思うのが良い。
エレミヤ牧師の証:私が育った環境は家族が多く、生活が大変だった。それゆえに祝福があるように思えなかった。でも、今となっては、それは私への神さまの配慮だったように思える。神と自分の思いは違っていた。けれども神の私への思いは素晴らしかった。生活が大変な中で、両親はこのように宣言した。「中学校までは義務教育だから行かせてあげたけど・・・でも、高校は、私立は無理。けど・・・都立なら行かせてあげよう。でも、もし落ちた場合は、社会人として働きなさい。」と言った。でも、高校には行きたかったので・・・その時から合格を目指して一生懸命勉強した。そうしたら大分成績が良くなり、無事都立の高校に受かった。それも神の自分への思いではないのか?と思う。しかも化学記号とかも覚えることも出来たし、そういう意味で全てのことは益になると思った。
139:18 それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。
139:19 神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。
139:20 彼らはあなたに悪口を言い、あなたの敵は、みだりに御名を口にします。
139:21 主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。
139:22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。
「悪者を殺してください。」とか「私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。」などと、結構物騒なことを言われている。けれどもダビデは王としてのキリストの型でもあるので・・・そのように見ていくなら・・・神さまに敵対するときにキリストの敵となり、それが思わぬ災いとなるので、そういう道を歩まないように気を付ける。
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」とあるように、神さまが私たちを調べてくださるのが確実なこと。そして、「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」ともあるように、神さまが調べてくださり、教えてくださることが尊い。
たとえクリスチャンであったとしても、私たちは往々にして間違えてしまうことがある。しかも間違えに入っていることにすら気付かないパターンが多い。たとえば「艱難前携挙説」という教理がそう。周囲の人が皆そう言っているからそれが正しい、なんていう風に思いがちかも知れない。でも、聖書の中では、クリスチャンが艱難時代を通ることがハッキリと言われているので、これは間違えた教理であることが理解出来る。そういったことをはじめ・・・色々と間違いや誤りは多々あるのですが・・・しかし神さまが教えてくださり、導いてくださるのなら、正しいことを理解する。多少なりとも、私たちが頑固であっても、神さまが教えてくださるときに物事を正しく悟る。けれども「道」を間違えてしまうと、「永遠の命」に入れなくなってしまうので気を付ける。
私たちが若干鈍い者であっても・・・しかし神さまが語ってくださるなら正しい道を歩むことが出来る。ただし終末においては、バビロンを通して来るもの、すなわちあらゆるアメリカの教理に関してはきちんと吟味することが大事である。そうでないと、「約束の地」(天の御国)から引き抜かれてしまうから。アメリカのおかしな教理&霊&集会は、どれもこれも真理から離れているので・・・それゆえに吟味が必要だと言える。
エレミヤ牧師の証:イスラエルに第三神殿が建てられるとか、獣の国はヨーロッパであるとか、艱難前携挙説や霊の戦いやヤベツの祈り等に引っ掛からないように主が教えてくださった。それゆえにぜひ、このことを尊重したい。そうするなら、「永遠の命」に入る。そういう意味で、「永遠の命の道」に入ってきている。そして上記のように祈っていくときに・・・知らなかったり、気づかなかったりした誤りを教えてもらい、「永遠の命」に入る。
レムナントキリスト教会
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