詩篇143篇 2015.12.27

 

 

 

ダビデの賛歌

 

143:1 主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください。

 

 

 

主は真実(KJV訳:忠実)なお方。そのように、主は、どんな人にも優って、忠実なお方である。たとえば、一旦召されたら、なかなか首にならない。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:色々と失敗をしても、しかし、首にならない。

 

 

 

主は、選んだお一人一人に対して、とても忠実。どんなお方よりも、主は、誠実だと言える。

 

 

 

143:2 あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。

 

 

 

「生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」のことばは、真実。義の神の前に、命を持った人間で、誰一人「義」と認められる人はいない。世界には60億以上の人がいるが・・・しかし、誰も「義」とは認められない。そういう意味で、大なり小なり、私たちはダメな者。でも、主はそのことを御存知で、弱さについてもとりなしてくださるので、主に頼り、変えるべき所は変えていただいて、歩むべき道を歩んでいきたい。

 

 

 

143:3 敵は私のたましいを追いつめ、私のいのちを地に打ち砕き、長く死んでいる者のように、私を暗い所に住まわせたからです。

 

143:4 それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました。

 

 

 

3節に書かれているように、「敵」がいる。この時のダビデの敵は、サウル王だったと思われる。そんな風に、私たちはクリスチャンとして、「敵」がいる。そして、私たちは血肉ではなく、「悪の霊」と戦う。私たちを打ち倒そうと願ってやまない「敵」がいることは、よくよく覚えておく。それゆえに、「敵」を知らないとダメ。

 

 

 

そして、見えない敵ではなく、人間的な部分だけを見てしまうときに、ひっくり返される。クリスチャンの永遠の命を妬んでいる敵がいる。今、あらゆる妨害がある。特にアメリカは顕著。たとえば、学校で聖書の持込みが禁止されている。

 

 

 

そんな風に、今、敵の策略があからさまである。他にも、トラクトを配布していたクリスチャンが逮捕される、なんていうこともある。そんな感じに・・・あらゆる方法で、クリスチャンがクリスチャンらしく歩めなくなっている。

 

 

 

「敵」は、私たちの魂を追い詰めようとしている。そして、地に着けて、クリスチャンの歩みをひっくり返そうとしている。しかし・・・だからと言って、手をこまねいてはダメ。ゆえに堅く弟子の歩みをしていきたい。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:長い間、会社に勤めていた。そういった中で、世の中は、この世のことに引っ張っていく、ということを感じた。たとえば、宴会等で、この世に引っ張っていく。そういう中で、働いていたのだが・・・でも、仕事をしながらも、祈りは必ず厳守するようにしていた。それでメインの祈りは、会社が終わったあと、2,3時間歩きながら祈った。そういう中で、霊的に守られた。会社がフル勤務のため、電車の中で聖書を読んでいた。あるいは、道を歩きながら読んでいた。そして、昼休みはメッセージをタイプしていた。そういう中で守られたり、奉仕が進んだりした。

 

 

 

たしかに、この世は地に打ち倒す、ということがあるが、しかし引かずに祈りや聖書通読や奉仕をしていきたい。

 

 

 

143:5 私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。

 

143:6 あなたに向かって、私は手を差し伸べ、私のたましいは、かわききった地のように、あなたを慕います。セラ

 

143:7 主よ。早く私に答えてください。私の霊は滅びてしまいます。どうか、御顔を私に隠さないでください。私が穴に下る者と等しくならないため。

 

 

 

6節に書かれているように、「霊的」に弱っていくことがある。他の箇所では、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42篇1節)とある。そんな風に、私たちは、「水(聖霊)」を慕うもの。普通の感覚として、霊的な飢え&渇きがくる。霊的な渇きがくるのは、健全で普通のこと。でも、「水(聖霊)」を飲む習慣の無いクリスチャンは弱ってしまう。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:キャンプでクリスチャンになった。でも、まる一年位、教会へ行かなかった。近くに行く教会が無かった。当時は、電話帳で見れば良かったのかも知れないが、しかし、休みの日に歩いて、教会を探していた。そしてある時、見つかったので、そこで洗礼を受けた。でも、当時は祈る習慣が無かった。でも、ある時を機会に、きちんと祈る時間を持つ習慣を身に付けるようになって、霊的な飢えや渇きから解放されるようになった。祈る習慣を持って、それから強められるようになった。

 

 

 

たしかに「祈る」ことは、手間隙が掛かる。たとえば聖書では、「祈り」について「水を汲む」というたとえを使っている。その一例として、イエスさまが最後の晩餐の前に弟子たちに、「水かめを持った男の人がいる。」と言っていた。かなり、重そうであることが想像出来る。また、カナの婚礼の時には、「六つのかめのふちまで、水を満たしなさい。」と言われたが、これもまた、重労働である。つまり、水を汲むのは重労働。エレミヤ牧師は子どもの頃、近所の井戸まで行って、水を汲んで家まで運んでいたそうですが、まだ、小学生だったからなのか、とても大変だったそう。

 

 

 

つまり、「祈り」とは、「水を汲む」ことのたとえである。でも、このことを惜しんだり、さぼったりしたりしてはダメ。歩みの中で、習慣として入れていくことにポイントがある。そうでないと、人さまのことを導いたり、助けたりすることが出来ない。

 

 

 

143:8 朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

 

 

 

ダビデは、「行くべき道」を尋ねている。私たちもそれに倣って、「行くべき道」を主に聞いていく。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:40歳を過ぎるまで、どういうクリスチャン生活を歩むのか、よく分からなかった。全く見えなかった。しかも教会もハッキリしていなかった。ゆえに少し焦りがあった。でも、主の働きをしていきたいと思っていたので、ジレンマを感じていたことがあった。しかし、ある時を契機に、主のことを優先していく中で、何をしていったら良いのか?について、分かるようになった。

 

 

 

主が、道を教えてくださることがある、ということを覚えておく。主にきちんと聞いていくなら、行くべきベストの道を教えてもらえる。分かるようになる。ただし、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4章7節)ということばがあるように・・・このことはパウロが言われたことですが、「道」が分かるのは、もしかするとレアケースなのでは?意外と勘違いの道が多いのでは?と思う。ゆえに、「道」がハッキリしない場合は祈っていく。そして、もし、働きに着いたら、御霊が教えてくださる。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:「道」が示されてから、後悔したことは一度も無い。道で転んだことはあるかも知れないが、方向を間違えた、と思ったことは無い。

 

 

 

そんな感じに、主が備えてくださる「道」がある。そして、主が示してくださった道を正しく歩んでいく。そうしたら、いつかゴールに辿り着く。

 

 

 

143:9 主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

 

143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

 

 

 

ここでダビデが、「あなたのみこころを行なうことを教えてください。」と言っている。そんな風に、私たちも、御心を行うことを教えてもらうことが大事。それに関して、結構、神の御心を間違える人が多いのでは?と思う。

 

 

 

たとえば、律法学者やパリサイ人がそうだった。キリストのことを神の冒涜者だと思い、それをもって有罪にして、十字架に付けてしまった。そんな感じに、神の御心とズレていた。つまり、神の御心と言いながらも、結局のところ、彼らはサタンの思惑を行っていた。

 

 

 

そんな風に・・・間違えてしまうことが多いので、謙虚になって、主に教えていただくことが大事。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:40歳を過ぎるまで、神の御心が分からなかった。でも、ある時から弟子の歩みに導かれて、主のしもべとして歩むことを心がけた。そして御心を理解するようになった。たとえば、「たとえ」の意味合いを理解すること等。当時、教会では注解書の購読を勧められた。でも、それを買ってはダメだと思った。そしてその判断は、結果として正しかった。たとえの意味合いも、しもべとして歩む中で、理解出来るようになった。他にも、「宮の崩壊」や「獣の国」等、しもべとしての歩みに徹していく中で、見えてくるようになった。

 

 

 

たしかに御心を行うのは、結構難しい。律法学者やパリサイ人が良い例である。でも、もし、御心を行えているとしたら、それはすごいことだと言える。ここに書かれているように、「平らな地」すなわち、歩みやすい道に導いていただける。御心を行うときに、そういう地に入っていく。

 

 

 

143:11 主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、あなたの義によって、私のたましいを苦しみから連れ出してください。

 

143:12 あなたの恵みによって、私の敵を滅ぼし、私のたましいに敵対するすべての者を消し去ってください。私はあなたのしもべですから。

 

 

 

正しい道、すなわち神の御心を行う道に入り、しもべとして歩んでいくことにポイントがある。自分の考えを優先していたら、見えない。でも、しもべとなっていくなら、見えるようになる。

 

 

 

たとえば、エレミヤ牧師の知り合いのクリスチャンに、「何が何でも、艱難前に携挙される。」ということを言っていた人がおられたそう。でも、そうすると、正しい教理が見えないのでは?と思う。でも、エレミヤ牧師は、しもべとして歩む中で、正しいことが見えてきたそう。