詩篇144篇 2016.1.3

 

 

 

ダビデによる

 

144:1 ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。

 

 

 

「主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。」と書かれているように、主が私たちを訓練する。

 

 

 

「訓練」ということに関して、別の箇所を参照してみましょう。

 

 

 

参照 Ⅱサムエル記22:35

 

22:35 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。

 

 

 

「青銅の弓でも引けるようにされる。」とあるように、主の訓練を受けていくときに、「青銅の弓」を引けるようになる。そして、神さまは、信仰の戦いにおいて、私たちの指を鍛えてくださる。

 

 

 

クリスチャン生活において、最初は簡単な戦いであっても、徐々にシビアな戦いに入っていくので、主の配慮で、少しずつ鍛えてくださる。

 

 

 

たとえば、エレミヤ牧師はかつて柔道をしていたことがあり・・・はじめは、「受身」を教えてもらった。そして徐々に、難しい技を覚えるようになった。

 

 

 

そんな感じに・・・神さまも順を追って、私たちを鍛えてくださる。はじめは「竹」かも知れない。しかし、さいごは、「青銅の弓」を引けるようになる。ポイントとして・・・クリスチャン生活は、神さまの配慮で「訓練」が来る。未来を見通して、色々な訓練に入る。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:過去の訓練が益になっている。今現在、教会では伝道の一環として、月刊バイブルのポスティングを行っている。それに関して・・・若い頃、訓練を受けたので、今は楽に配布している。昔、教会のポスター貼りをしていた。それが結構大変だった。今もそうかも知れないが、その頃も、許可無しに、電柱に何かを貼ることは禁じられていた。しかし、当時所属していた教会の牧師は、「貼るな!」とは言わず・・・「電柱に貼りなさい!」と言っていた。でも、その結果、警察に捕まってしまった。そして始末書を書かされた。そんな感じに、だんだんと鍛えられていった。それだけではなく・・・フィリピンへ宣教にも行った。その前のチームで殉教が起きたのだが、しかし、人員を募った際に、手を上げた。そして殉教を覚悟で行くことになった。それは良い経験となった。そういったことを契機に、だんだんと度胸がついてきたし、考え方も変わってきた。

 

 

 

こんな風に・・・神さまは鍛える。でも、毎回逃げている人は、訓練にならない。訓練して、だんだんと強くなる。ゆえに歩み&信仰を訓練する。

 

 

 

144:2 主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。

 

 

 

「とりで」というのは、守るためのもの、盾となるもの。

 

 

 

主は、盾になってくれたり、守ってくれたりする。

 

 

 

私たちは主を前にするときに、守られる。そういうことをクリスチャン人生で経験することが大事。

 

 

 

時折、手に負えないことがある。私たちの手に及ばないことに遭遇することがある。でも、それは、主が「やぐら」であることを経験する良い機会でもある。

 

 

 

たとえば、ダビデはサウル王をはじめ、精鋭3,000人に追いかけられた。でも、神を「盾」として、守られた。そんな風に・・・私たちも、主こそ「とりで」である、ということを経験していく。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:かつて職場で、大変とか困難に思うことがあった。その頃、某企業で働いていた。業務の中で、英語が絡んでいた。けれども、職場に意地悪な人がいた。その人は、私(エレミヤ牧師)よりも前に入社していて、自分(エレミヤ牧師)と同じような仕事をしていた。その人は気持ちが狭い人だったのでしょうか・・・私(エレミヤ牧師)が何もしないうちから悪口を言っていて、私(エレミヤ牧師)の評判は次第に悪くなっていきました。それで、そのことを主に祈っていた。「もし、御心なら、この職場で守られますように。」と。すると、ある時、面白いことが起こった。業務の一環で、英文の手紙を海外へ送っていたのですが・・・そうしたところ、先方の担当者から「あなた(エレミヤ牧師)の仕事に感動しました。」という感想をもらうことが出来た。お褒めのことばをいただいたお陰で、少し評判が上がり、首が伸びた。ちょうど危なかったときに、褒めてもらった。こんな風に、必要に応じて、また、祈りを通して、神さまの不思議な守りや助けがあることを体験することが出来た。

 

 

 

このことをぜひ、とらえていきたい。主を「とりで」としていく人は、栄光を見たり、危ない時に守られたりする。

 

 

 

144:3 主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

 

144:4 人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。

 

 

 

「主よ。人とは何者なのでしょう。」とか「その日々は過ぎ去る影のようです。」とあるように、聖書的に・・・「人間」というのは、大したことの無い存在である、影のような存在だということを言っている。このことは、いわば、「人間」は「御使い」と比べて、寿命が短く、弱い存在である、ということを言われているのでは?と思う。

 

 

 

「御使い」と「人間」に関して書かれているところを、少し見てみましょう。

 

 

 

参照 へブル人への手紙2:511

 

2:5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

 

2:6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。

 

2:7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、

 

2:8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

 

2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 

2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 

2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。

 

 

 

御使いのほうが、どう見ても、出来ることが多く、寿命も長い。6千年前にアダムとエバを騙したサタンが、今も生きている。そういう意味で、御使いのほうが、能力が高い。

 

 

 

けれども、御使いと人間との逆転劇が起きる。本来は御使いのほうが、出来ることが多い。でも、後には、御使いが人間に仕える。兄が弟に仕える、というように、逆転が起きる。こういうことを頭に入れておく。ゆえに御使いは、怒っていて、狙っている。サタンは後に、人が受ける栄光を知っている。それでは、なぜ、御使いと人が逆転するのか?

 

 

 

その理由として・・・「従順」ということが挙げられるのでは?と思う。たとえば、エサウとヤコブに関して・・・エサウは長子の権利(御国を受け継ぐ権利)を放棄して、俗悪な者となってしまった。その結果として、御国を受け継ぐことに失敗した。一方、ヤコブの場合、永遠の命を必死に求めた。このことは御国を受け継ぐパターン。

 

 

 

もうひとつ挙げると・・・ワシュティとエステルもそう。ワシュティは、王の命令に従わなかった。ゆえに彼女はエサウと同じタイプ。しかし、エステルは、王(天の父なる神さま)やモルデカイ(聖霊の型)や宦官ヘガイ(聖霊の型)の言うことを最後まで忠実に聞いて従っていた。ゆえに逆転した。そしてヤコブと同様、御国を受け継いだパターン。

 

 

 

そんな風に、全ての人が「栄光」を受けるわけではなく・・・しかし、従順&忠実な人が逆転する。そのことに関しては・・・イエスさまが良き模範。ゆえに主に倣う。

 

 

 

また、「人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。」とあるように、今、持っているものは、大したことは無い。ゆえに今、持っているものに拘泥するのは的外れ。人間の寿命は短いので、ポイントをついて、後の世に大いに目を注いでいきたい。人間は不自由、体も弱い、寿命も短い、ゆえに影のようである。なので、この世のことばかりに目を留めないようにする。

 

 

 

そのことに関して、別の箇所を参照してみましょう。

 

 

 

参照 ルカの福音書14:1624

 

14:16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。

 

14:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。

 

14:18 ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』

 

14:19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』

 

14:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

 

14:21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』

 

14:22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』

 

14:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

 

14:24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」

 

 

 

王が招待した人たちは、誰も来なかった。でも、招待されていなかった人たちが来た。このことは・・・ユダヤ人(クリスチャン)が断ったので、救いが異邦人に及んだ、ということを言われているのでは?と思う。

 

 

 

しかも、21節に「貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえ」と書かれているように、最悪の人ばかりが呼ばれている。でも、神の招き、というのは、こういうもの。つまり・・・一般的に教会に来る人たちは、こういう人たち。このことを通して・・・私たちが弱くないと、貧しくないと、受けられない恵みがある、ということを言われているのでは?と思う。つまり、金持ちだと、神に触れない可能性があるのでは?と思う。

 

 

 

私たちが貧しいときに、神の恵みが来ている可能性があるように思う。「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。」(イザヤ書46章3節)というみことばがあるように、私たちが貧しい、ということも、世の初めから選ばれていた可能性がある。

 

 

 

たとえば、サウルにハンディがあったのも、恵みだったのでは?と思う。彼には、クリスチャンを迫害した、というハンディがあった。それゆえに、彼サウルは謙虚にならざるを得なかったように思う。もし、そういったハンディが無ければ、貧しくなれなかったのではないか?と思う。彼は、元々はパリサイ派で、律法について厳格な教育を受けていた。しかも、「律法による義についてならば非難されるところのない者です。」(ピリピ人への手紙3章6節)とも言っていた。これらのことは人間的には良いことなのかも知れませんが・・・しかし、もし、彼パウロに、何らかのハンディが無ければ、貧しく(謙遜に)なれずに、高ぶっていたのでは?と思う。

 

 

 

ポイントとしては・・・キリストの婚姻に入る人、というのは、21節のような人ではないかと思う。ゆえに、人間的なことに一喜一憂しないようにする。

 

 

 

144:5 主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を出させてください。

 

144:6 いなずまを放って、彼らを散らし、あなたの矢を放って、彼らをかき乱してください。

 

 

 

世の終わり、艱難が来る。迫害者に対して、主が来る。「いなずま」は、霊的な災いのことを言われている。つまり、6節では、霊的な災いが、迫害者に対して来る、ということを言われている。

 

 

 

144:7 いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水から、また外国人の手から、私を解き放し、救い出してください。

 

 

 

「大水」も霊的なことのたとえ。また、「外国人」とは、エサウのように、俗悪なクリスチャンのことを言われている。そして、「大水」とは、具体的には、「偽りのリバイバル」のことを言われている。

 

 

 

144:8 彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。

 

144:9 神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。

 

144:10 神は王たちに救いを与え、神のしもべダビデを、悪の剣から解き放されます。

 

 

 

10節に、「悪の剣」とあるように・・・世の終わりに、「剣の災い」が色々と来る。でも、主が守ってくださる。

 

 

 

144:11 私を、外国人の手から解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。

 

 

 

「うそ」とか「偽り」とあるように、世の終わりの災いとして、「嘘」や「偽り」が横行する。ゆえに、キリスト教会が偽りの教理に入っても、驚いてはダメ。たとえば、艱難前携挙説がそう。そんな風に、あらゆる偽りがある。しかし、主の恵みがあるなら、嘘や偽りから守られる。

 

 

 

他にも、これからエルサレムに「第三神殿が建つ」とか「獣の国はEU」とか、そういった嘘や偽りがある。ゆえに、偽りから守られるように祈る。

 

 

 

144:12 私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。

 

 

 

「若木」のように育つ。これは祝福。

 

 

 

144:13 私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。

 

 

 

「私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。」とあるように、麦やぶどう酒を備えてくださる恵みがある、ということを言われている。

 

 

 

また、「私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。」とあるように、羊(信者)が増える。

 

 

 

144:14 私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。

 

144:15 幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。

 

 

 

「私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、」とあるように、伝道が成功して、霊の子ども(信者)が生まれる。レムナントキリスト教会もそれを目指し、求めていく。主の方法でそのことをなしていきたい。こういう歩みが祝福された教会の歩みなので、このことを求めていきたい。