詩篇97篇 2015.2.8

 

97:1 主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。

 

主は、王(KJV):主は治める

 

◆「治める」とは、「政治」であり、たとえば日本では阿部首相が治めている。その時に正しい人には「誉れ」を、そして悪い人には「罰」を与える。ちなみに私たちの歩みは「信仰」による歩み。実際にそうは見えないけれども、みことばを信じる。そして「主は治める」ということに関しても、「信仰の世界」、要は「霊の事柄」なので見えない。また、ある人は真の意味でそれを信じない。でも、「そうなんだ~」と思っていくときに、「正しい道筋」に入る。

 

◆全世界もそうだし、また、キリスト教会も神が治めている、ということは正しく理解したい。そしてこの世を含めて、真の支配者は神御自身ということもきちんととらえておく。ゆえに見える事柄だけを見てはいけない。

 

Ex:日本はアメリカから空襲を受けた。それだけを見るとアメリカが悪いように見える。しかし良いことには良い報いを、悪いことには悪い報いをされる神さまが、日本がかつて行ったキリシタンの迫害や命を奪ったことに対する報いをされた。たしかにその時にキリシタンは仕返しをしなかった。しかし日本はのちに「災いの報い」を神によって受けた。ゆえに短期的に見てはダメ、神が良い報い&悪い報いをされるから。

 

ポイント:たとえ理不尽な目に会っても、報復は神に任せておく。

 

※エレミヤ牧師の証:以前の教会で学びをした。しかしさいごはカルト扱いをされ、教会を追い出された。けれどもそこにかつていた某クリスチャンの話によると・・・そのあとに教会で大変なことが起きた。そこの教会はキリスト教会でカルト扱いをされて、200人位がその教会を出たそう。自分に対して行った報いかどうかは、断定はできないが、しかし主に従って嫌な目に会っても、主が正しくさばいてくださるので心配する必要がない、ということを学ばされた。

 

ポイント:この世でもそうだし、場合によってはキリスト教会においてもそうだが、理不尽なことや嫌な目に会っても、人間的なことで対応することのないように気を付けていきたい。

 

97:2 雲と暗やみが主を取り囲み、義とさばきが御座の基である。

97:3 火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。

 

◆神が王として治め、時に応じて、正しい人には良い報いを、そうでない人には悪い報いを与える。それぞれに正しくさばく。その方法が2節のみことば、「雲」「暗やみ」でさばく。

 

「雲」「暗やみ」について、少し見てみたい。

 

参照 申命記4:11

4:11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。

 

◆これは神が十戒で、三日目(3つ目のミレニアム、すなわち再臨の型)に下って来たときの事柄。その時に主は「ホレブの山」で語った。そして「ホレブ」も再臨の型。ゆえに、「雲と暗やみの暗黒」とは、「さばき」のことと関係する。その時(キリストの再臨の時)に正しく歩んでいないクリスチャンにとっては、「さばきの時」となる。ちなみに何によってさばかれるのか?→「二枚の板(旧訳聖書&新約聖書のみことば)」によってさばかれる。

 

再び「詩篇」に戻ります。

 

◆神さまが正しくない人をさばく、というときに、「雲」「暗やみ」でさばく、ということはよくよく理解する。

 

◆神がその人の歩みを正しくない!と見なしたときに、「光」が来ないという方法で「さばき」が来る、ということを語っている。ゆえに「光」が見えない、というときには要注意!である。神がその人に「光」を与えずに、「さばき」に渡している可能性があるから。そして「光」を与えないのは神なので、神がその人を「暗やみ」に渡されたら、「暗やみ」にいることになる。

 

※エレミヤ牧師の証:かつてエレミヤ牧師はブラザレン系の教会に数年間通ったことがあった。ブラザレン系の教会は「ニコライ宗」の教えを奉じている。この教えは牧師などの中間祭司職を否定するもので、「牧師がいる教会へ行ってはダメ!ということを言われているそう。しかしそれは行く教会が無くなる、という「罠」にはまることとなり、徐々におかしいと思ってきても、そこからはなかなか抜け出すことができない。さて、いったいどうしたら良いものか?と思っていた。そこで神さまに祈り、また、聖書を読んでいく中で、それは明らかにおかしい!ということに気付かされ、「罠」から逃れることができた。そしてそんな「罠」に入ったのは、ひょっとするとその時の歩みの中で、神さまの前に正しくないことがあった可能性があるのでは?と思う。

 

◆神のさばきのポイント:「光」が消え去り、「暗やみ」がその人を覆う。

 

Ex:かつての律法学者やパリサイ人は、ペテロやヨハネやヤコブが持っていた「光」を持っていなかった。彼ら(律法学者、パリサイ人)の「偽善」のゆえに「光」が消え失せていた。聖書の学びをしながらも、しかしいざ肝心なイエス・キリストを目の当たりにしながらも「救い主」だと理解できなかった。

 

ポイント:「神のさばき」に渡されないように気を付ける。

 

◆今のキリスト教会は、「暗やみ」が覆っている。Ex:艱難前携挙説

 

◆キリスト教会において、「光」が「神のさばき」によって消え失せている可能性がある。ゆえに「恐れ」を持つ。

 

97:4 主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。

97:5 山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。

 

「山々」が溶ける、ということについて見てみたい。

 

◆「山」は普通、溶けない、動かない。しかし聖書では「溶ける」とある。そして黙示録では「山」が動くと言っている。

 

参照 ヨハネの黙示録6:14

6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された

 

「山」は「木」(クリスチャンのたとえ)の集まりということから、「教会」のたとえであることが理解できる。そしてこのことは、決して動くはずの無い教会の教理や歩みが変化してしまうことを言われている。また、世の終わりにテサロニケ人への手紙では「背教」が起きることについて言われている。そして「背教」とは、「山が溶ける」ことの別の表現である。

 

ポイント:決して変わるはずのない教会が変わり、別のものになってしまうことを、聖書では繰り返し語っている。

 

Ex:カトリックは聖書と反対の勘違いの教えを語っている。「聖書に間違いがあり、教会には間違いが無い」と言っている。しかしこのことは、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイの福音書24章35節)のみことばを否定するものである。

 

◆今、教会が変化する兆しはアメリカにおいてある。政治が音頭を取り、アメリカのキリスト教会を悪い方向へ変えていくというもの。

 

Ex:路傍伝道をしていた牧師や公の場所で祈る人が逮捕されている。

 

◆こんな風にアメリカでは、教会がどんどん政府の下に入っている。

 

Ex:アメリカでは「503C法」というものが導入されている。これは税金を免除するというもの。けれどもその代わりに政府の下に入らなければならない。そして牧師の任命やキリスト教会の名で祈るな!という命令が政府によってなされる。

 

◆このように、いずれ教会が変えられてしまう。

 

世の終わりに気を付けなければいけないひとつのポイント:教会を見てはダメ、教会を基準にしない、基準はキリストのことばであり、教会に歩みを合わせてはダメ。

 

Ex:カトリックは「地獄は無い」と言っている。しかしそんなことを盲信してはダメ。入るべき天の御国に入れなくなってしまうから。

 

ポイント:聖書の言っているスタンスで「教会」のことを見る。そうするならおどろかない。そして「山は動く」というのが聖書の主張であることはとらえておく。

 

97:6 天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る。

97:7 偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。

 

「偶像」とは、「人」を「偶像」にすること。

 

Ex:ローマ法皇、マザー・テレサ、ビリー・グラハムなどの言うことを、聖書のみことばより重んじる。

 

 

ポイント:「人」を「偶像」とすると、「恥」を見てしまう。

 

97:8 シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばきのために。

97:9 まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。

 

「主よ。あなたのさばきのために」と書かれているように、神は、「この世」&「教会」をさばく。ゆえに不信仰にならないように気を付ける。

 

97:10 主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

 

「主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される」とあるように、「災い」や「企み」があっても、神によって守られる。

 

97:11 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。

 

「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている」と書かれているように、何しろ「光」が蒔かれる。そして「心の直ぐな人のために」と言われているように、正しく歩んでいるときに、「光」が来る。

 

◆「聖書を知る、聖書を理解するにあたって大事なポイント」とは、海外の神学校へ行くこととはかぎらない。歩みを糾し、御心を行っていくなら、「光」が与えられる。レムナントキリスト教会はそれを目指している。たとえば「エジプト」に関して大事な「光」が与えられた。

 

※先日の弟子の学びのおすすめを通して・・・エジプトは「この世」の象徴であり、また、「奴隷」(罪の奴隷)であることを理解した。そしてそれはこの世化した教会は「罪の奴隷」だということを悟った。つまりこの世化した教会に留まって何かしようとしても御国に入るのは難しい、でも、そこから出るなら「罪」から解放されて自由になって御国に入る。しかし「罪」を行っている者は「御国」に入るのは難しい、ということを教えられた。こういった感じに「光」が与えられた。

 

◆さらに最近の「行い」についての「光」が与えられた。それに関して、私たちのさいごは正しく「義」とされるかどうかがポイントであることを学んだ。

 

※聖書に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル人への手紙9章27節)ということが書かれている。それに関連してヨハネの黙示録では「行い」によってさばかれるということが言われている。つまり「さばき」の方法は「行い」であり、「信仰」によってさばかれるのではない、ということを理解した。また、サルデス(プロテスタント)の教会に関して聖書は、「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」(ヨハネの黙示録3章1節)とある。つまり「あなたの行いを知っている、しかしじつは行いが死んでいる」ということを言われていて、それは先ほどの「行い」によってさばかれるということから、神さまから「サルデス」と見なされてしまって悔い改めない場合に、「天の御国」を継がない可能性がある、ということを理解した。

 

◆そういった感じで、レムナントキリスト教会は、だんだんと正しい方向へきている。それは神が「光」を与えてくださるから。

 

ポイント:みことばの「光」が与えられていることが大事、聖書を読むのも大事。しかし「光」が与えられていることが大事。

 

ポイント:先ほど例に挙げたサルデス(別名:エサウ)は、「いのちの書」から名前が大量に消されることが暗示されている。つまり「エサウ」(俗悪な者)とは、プロテスタントの隠れた名前である。ゆえに例外的な歩みをしなければいけない。

 

参照 ヨハネの黙示録3:4

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

◆このように、あれもこれも、「光」であり、神が「光」を与えてくださることが尊い。そして「光」があるかないかは、大きな違いや差をもたらす。しかし残念ながら、どこを努力すべきか?果たして永遠の命は確定なのか?について、多くのクリスチャンは見ていない。

 

97:12 正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。

 

ポイント:正しく歩むこと。つまり神学校の「万艱の書」を読むことではなく、もし「光」を求めるなら、歩みを糾すこと。そして「光」があるなら、ペテロのように無学であっても、どんどん正しい方向へ歩むことができる。