詩篇98篇 2015.2.15


98:1 新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。


主は、奇しいわざをなさった(KJV訳):主はおどろくべきことをなされた。ゆえにこのお方に「賛美」をする。


神の色々な御性質があり、そのひとつとして、神さまは「己」を隠すお方である。これは人間とは異なる。人はえてして目立ちたがる。しかし神は「己」を隠し、謙遜なお方である。そしてもう一面として、神はおどろくべきことをなされるお方でもある。過去を振り返ってもそうだと言える。


初降臨の時になされたことを見ると、「再臨」にどのようなおどろくべきことをされるかが理解できる。


神さまは侮られるお方ではない、ということが言える。それぞれの人の「行い」に報いる。人間は不公平。しかし神は「公平」だということは理解する。つまり「悪者」と「正しい人」を区分する。そしてこれは「おどろくべき」ことだと言える。


ちなみに「悪者」とは、一体どういう人なのか?それはかつての律法学者やパリサイ人のように、神のことばを扱いながらも「白く塗られた墓」と呼ばれた人たちのこと。外見は綺麗でも、内側にはあらゆる「貪欲」で満ちていた人々のこと。そういう人たちを区分したことが、福音書に書かれている。


「福音書」は、初降臨のキリストについて学ぶと同時に、さらに再臨の時にキリストが何をするのかを学ぶためでもある。そして聖書の専門家ではあったが、しかし律法学者のように、「貪欲な者」は、「ナザレのイエス」という方法で区分された。


「ナザレのイエス」ということに関して・・・皆、「ミカ書」のことばに引っ掛かった。ミカ書には「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ書5章2節)とあるので、「ナザレ出身」ということで、「ダメだ!」ということになった。イエス・キリストを目の当たりにしながらも、「こいつは救い主ではない。偽物である。」と判断し、正しくキリストを理解した人以外は全員一致で十字架に付けた。しかし、実際のところは・・・父ヨセフがベツレヘムで人口調査をしている途中、母マリヤは産気づいたので、イエスは「ナザレ」で生まれた。そのことに皆、引っ掛かった。このことは夫ヨセフも知らなかった可能性がある。


ポイント:たしかに神は、分かる形で救い主について書いた。それは一面の事実。しかし人がまさか、絶対に引っ掛かられない!であろう、という方法を用いる。ゆえに侮られるお方ではない、ということが理解できる。


エレミヤ牧師の証:こんな風に神さまは侮られるお方ではない、ということを理解してから、人さまの前はともかく、神さまの前に忠実に歩むことにした。


このように初降臨もそうだったように、そして「再臨の時」にも、おどろくべきことをする。でも、今のクリスチャンは理解していない。しかし、もし再臨の主を正しく受け入れないなら、福音書の意味が無くなってしまう。そう、特に「再臨」に関することが「罠」になっている。


Ex①:「艱難前携挙説」の罠→聖書には、「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある」(マタイの福音書24章21節)とある。が、しかし、クリスチャンは艱難を通らずに、その前に「携挙」されるという教え。そのために多くのクリスチャンは艱難時代のための備えを怠らせられている。しかしそれはゆくゆく「罠」となる。


Ex②:「エルサレムの第三神殿」の罠→マタイの福音書に、「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』」(マタイの福音書24章1、2節)ということが書かれている。そして多くの人が「宮」のことを、物理的な建物だと思っている。ちなみに今、エルサレムに行っても神殿は無い。だからそのあとに「第三神殿」が建てられて、それが崩壊したら「世の終わり」が来る、という教え。しかし実際に主イエスが言われたのは、建物としての「宮(神殿)」が崩されるということではなく、「教理の崩壊」についてのことを言われたのである。世の終わりに使徒ペテロやパウロをはじめとしたあらゆる正しい教えが崩壊して、さいごは教会の礎石であるキリストの教えまでが投げ出されて変質したものになってしまう、ということを言っているのである。しかし、皆、「罠」にかかっている。「第三神殿」が建てられてから・・・なんて的外れなことを言っている。つまり今のクリスチャンはこのことを「他人事」と思っている。失礼ながら、今のクリスチャンは福音書から何も学んでいない、と言える。


ポイント:神はおどろくべきことをされるので恐れを持つ。神は人の心を見て、偽善者を一掃する。神はおどろくべきことをされ、私たちの思いを超えたことをする。ゆえに侮られるお方ではない、ということを理解する。それによって大きな差をもたらす。


98:2 主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。


=神の義


神が正しいことを、どの国々も示された。


義、つまり正しく義とされる、ということを理解していきたい。


人間の世界は、うまく立ち回った人が悪い目に会わないかもしれない。しかしこの世界は神が治めている。そしてすべてをご存知。ゆえに理不尽なことが起きても心配しないこと!


Ex:イエス・キリストを十字架に付けた人は、40年後にひとり残らず殺された。神さまがそのことに対してさばきを行った。


ポイント:悪いことをした場合に・・・もしかすると人からはそうではないかもしれないが、しかし神から必ず「罰」が来る、という点はとらえておく。ゆえに悪いことや理不尽なことをされたからといって・・・決して自分で報復したり、仕返しをしたりしないようにする。


さらにこのような例がある。


Ex:ロス偽悪(M氏)→ある時、彼(M氏)の奥さんが銃弾で撃たれた。そしてその時に「保険金」を掛けていたそうで、彼は警察に捕まった。しばらく刑務所に入っていたのだが、しかし裁判の中でいつの間にか無罪となり、釈放された。けれどもその後、何かをきっかけに再び刑務所に入ることとなり、ほどなくして彼は首を吊って亡くなったとのこと。


このことはつまり、人のさばきはうまくだませたとしても・・・しかし、神のさばきはだませない、ということを言われているのでは?と思う。ゆえに結論として、「神の義」は公に示されている。そして神を受け入れない共産国は、どこも「不幸」になる。これも「神の義」と言える。


ポイント:良くも悪くも、神は正しく「さばき」をする。


98:3 主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、み

な、われらの神の救いを見ている。


「イスラエル」は、神の特別な民。神に忠実に従って歩んでいた民。


人の前はどうであれ、神のことばに忠実に歩んでいくときに、「恵み」「真実」を覚えてくださる。報いてくださる。


エレミヤ牧師の証:人には裏切られることがある。でも、主に対して忠実に歩んでいて、裏切られることはない。


某兄の証:聖書の端から端まで調べた。神に信頼して裏切られた人がいたかどうか?ということを・・・そして結果として、そういう人は皆無だった。


エレミヤ牧師の証:以前の教会でたとえの理解を守った。その結果、教会を追い出されてしまった。しかし主に信頼した結果のゆえにそのようになったので、裏切られることはなく、あらゆる啓示が開かれるようになった。たとえについて忠実だったから。そして神はそのことを覚えておられた。ゆえにこのお方に期待したいと思う。


ポイント:神に真実を尽くすなら、覚えていただける。しかしこれは裏返すなら、毎回不忠実だと、悪い意味合いで覚えられてしまうので気を付ける。


98:4 全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

98:5 立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。

98:6 ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。

98:7 海と、それに満ちているもの。世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。

98:8 もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。


主に「賛美」をすることは尊い。


主は私たちに「奇しいわざ」をなされるので、「賛美」が出て普通のクリスチャン生活と言えるし、クリスチャンのあるべき姿でもある。反対に、不平や不満ばかりだと危ない。


98:9 確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。


「主は地をさばくために来られる」とは、「再臨」のことを言われている。つまりこのことばは、「再臨」&「終末」に関することである。


「再臨」について知るべきポイント:すべてのクリスチャンにとって、喜びになるか?というと、それは違う。


Ex:学校のテストで・・・きちんとテストに備えて勉強している人にとっては、それは喜びの時となる。しかし反対に、さぼっている人にとっては、そうではない。学期末の通信簿を受け取るのも冷や冷やするのでは?つまり同じテストを通して、教師や親御さんからほめられる人と、反対に叱責を受けてしまう人がいる。


それと同じく・・・再臨において、すべてのクリスチャンにとって、「祝福」とはかぎらない。


Ex①:賢い娘VS愚かな娘→片やキリストとの結婚が成立(賢い娘)。→天の御国を相続するクリスチャンのパターン。しかしもう片方は成立しない(愚かな娘)。→花婿(キリスト)から、「確かなところ、私はあなたがたを知りません」(マタイの福音書25章12節)と言われてしまう。これは天の御国に入れないクリスチャンのパターンと言える。


Ex②:麦VS毒麦→「麦」は「倉」(天の御国のたとえ)に納められる。これは天の御国に入るクリスチャンのこと。しかし「毒麦」は「火」(火の池)で焼かれる。→永遠の苦しみの場所に入るクリスチャンのこと。


ポイント:再臨が災いになるクリスチャンもいる。


キリストに対して「災い」を下した人は、「再臨」が「嘆きの時」となる。


参照 ヨハネの黙示録1:7

1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。


学校の試験問題が、皆が同じ箇所からの出題されるように・・・キリストの「さばき」の基準に関しても、個々におけるクリスチャンに全く同じものが適用される。「さばき」を経て、あるクリスチャンは「祝福」(天の御国)へ入り、しかしあるクリスチャンは「火の池」に入る。


クリスチャン生活を送っていく上で、気にしなければいけないポイント:世の終わり、さばかれる基準を理解して、クリスチャン生活を送ること。


Ex①:ヤコブの手紙の中で「誓い」について書かれている。そして、「天をさしても、地をさしても、そのほかの何をさしても誓ってはならない」(ヤコブの手紙5章12節)と言われている。


世の終わり、反キリストに対しての「誓い」がいずれ持ってこられる。その時にあるクリスチャンは誓い、あるクリスチャンは誓わない。そんな中、「とりあえず、今は反キリストを拝んでおいて、あとで神さまの前に悔い改めればいい。神さまはどんな罪も許してくれるから」という惑わしがくる可能性がある。しかし、聖書では前もって、「誓い」に関しての注意点が述べられているので、その時に言ったことばがそのまま有効になる。つまり誓ったことばでさばかれる。


Ex②:黙示録に書かれているように、神さまはサルデス(プロテスタント)の教会に対して、「わたしはあなたがたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」(ヨハネの黙示録3章1節)と言われている。


つまり「行い」によって、さばかれる、ということが理解できる。黙示録の他の箇所にも、「行い」に応じてさばかれることが言われている。


参照 ヨハネの黙示録20:12,13

20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた

20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた


「行ない」が、「死んでいる」というときに、「さばき」の対象になる。また、「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」(ヨハネの黙示録3章4、5節)とある。これは裏返すと、ほとんどのプロテスタントのクリスチャンの名前が、「いのちの書」から消されている、という風に理解できる。


神は公正にさばかれるお方。ゆえにレムナントキリスト教会では、「行い」について強調する。「行い」を糾し、反キリストが登場した時に、誓わないように祈り求めていきたい。主がこういうことを前もって語ってくださるのは感謝なこと。


ポイント:あらゆる聖書のことばは、「終末」や「再臨」について書いてある。ゆえに聖書を正しく読まないと、勘違いに入る。聖書を正しく理解して、なすべき歩み&働きをしていきたい。