詩篇42篇 2014.1.19

 

 

 

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

 

42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

 

神の霊は「水」にたとえられる

 

私たちの日常生活においても水が無くては生きていけない

 

クリスチャン生活もそれと同じ

 

イエスさまはサマリヤの女に「生ける水(聖霊)をあげよう」と言った

 

ここでも神が水にたとえられている

 

水、聖霊は文句なしに必要

 

神の霊をクリスチャン生活で得るか得ないかによって、結果は大きく変わる、それによって命(永遠の命)の危険がある

 

クリスチャンの中に、このことが体に染み付いていない人、場合によっては神の霊を全く受けないクリスチャンがいる

 

しかしこれは問題

 

水、神の霊に触れる(祈り)ことを生活習慣に入れる、そうでないと霊的に枯渇し、クリスチャン生活が成り立たなくなる、根本的なクリスチャン生活が送れない、場合によっては未信者より悪くなる

 

参照 ルカの福音書11:2425

 

11:24 汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。

 

11:25 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。

 

11:26 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」

 

聖霊に導かれるように求めないと、変な霊が入ってきてしまう可能性がある

 

クリスチャンの中にこのことが習慣になっていない、生活に組み込まれていないという人がいる

 

根本的な問題になる

 

とにかく水、聖霊を確保する、祈って聖霊に触れる習慣がないと、聖霊に導かれないので求めていく

 

霊的な渇きが来るのは幸い

 

渇きが来るというのが正常、その時に素直に祈ることを身に付ける

 

私たちの魂がそれを求めている

 

問題は渇かずに、祈りもしないこと

 

いくら話しても聖霊の香りがしてこないクリスチャンがいる、しかしそれは問題

 

聖霊、水によってはじめて満たされる

 

祈る時間はある程度確保する

 

やることをやらないと、霊的に恵まれない

 

飲むか飲まないかは本人の問題

 

霊的な枯渇が来るのは祈らないから

 

ゆえに自分で祈るしかない

 

 

 

42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。

 

42:4 私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

 

42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

 

困難の中でも、主を求めていく

 

5節「私はなおも神をほめたたえる」のことばにポイントがある、また11節でも同じことを言っている

 

現状は普通なら、神をたたえるような状態ではない、しかし困難に会ってもなおかつ神をほめたたえる→聖書で書かれている正しい姿勢

 

人間的には絶望したり、問題があったりしても、なおかつ神をほめたたえることが大事

 

神がすべてを益としてくださるという態度が正しい

 

困難でもあえて主をほめたたえて助けを求めていく

 

人の思いと神の思いは異なる、しかし神に従う

 

困難がある時は不満が出て普通、しかしそうではあっても・・・ほめたたえられない状況であっても実践するならすぐに状況が変えられなくても、いずれ恵みや祝福を得る

 

実践しないなら、祝福を逃してしまう

 

 

 

42:6 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。

 

42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。

 

42:8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。

 

42:9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」

 

こういうこともある、主もあった、主は何も悪いことをしていないのにそうだった、ヨブもそう

 

正しい人でさえ、神に見捨てられたのでは?と思う時がある

 

参照 マタイの福音書27:46

 

27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 

しかし、主が私たちを忘れたと結論付けることにポイントは無い

 

御心を行っていても、そのような困難に会う時がある

 

周囲が敵になってしまうことがある

 

でも、神は見捨てない

 

神が見捨てたというようなところを通る

 

しかし試しの中でも忠実に行っているのかを神はご覧になっているのでとどまる

 

その渦中にいる時は分からない

 

聖徒は試しを通る、それを理解していないとその時にコロッとやられてしまう

 

 

 

42:10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。

 

42:11 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

 

敵対する者がいる

 

主の時に関しては、律法学者やイスカリオテのユダがそうだった

 

我々にも敵となる人がいる

 

サタンも我々が落ち込むように耳元で言ってくる

 

「神の栄光がどこにあるのか?」「神に見捨てられたのでは?」と、そういうところを我々は通る、特に弱気になっているときに、かさにかかったかのように耳元でくる

 

「あれもある、これもある、お前のどこにクリスチャンの栄光があるのか?」等

 

しかし神を待ち望んで栄光を見ていく

 

主が道を開いてくださるので信仰を持って進んでいくことが大事

 

たしかに耳元でサタンが語りかけてくる、そしてそれに同調してしまうこともある

 

しかし神を待ち望んで栄光を見る

 

永遠の命の争奪戦なので、敵からのこともあることを見ていく