詩篇102篇 2015.3.15
悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの
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102:1 主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。
102:2 私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。
◆この箇所は一見、苦しい時や悩んでいる時に捧げる祈りだと、ごく一般的という風に取れる。けれども、もしかすると102篇に書かれているのはそれだけではなく、「艱難時代」のことなのでは?とも思う。
◆そしてあらゆる聖書のことばは、世の終わりに成就するので、そういう理解で今回の所を見ていきたいと思う。
◆1節において、「祈り」が神に届いていないように見える。
◆2節では、神が顔を隠されて答えていないように見える。ヨブがまさしくそうだった。
◆そんな風に、艱難時代になったときに、神が祈りを聞いてくれないように思えるのでは?
◆サタンが気落ちさせるようなことを耳元でささやいてくる。「反キリストを拝み、誓いなさい」と。そこを狙ってくるので、そのあたりに視点を置いて「心」を備えていきたい。そして「三年半」ということをも心に留めておく。
◆艱難時代は「絶望の時」のように思えてしまう。気持ち&信仰が崩されてしまう。それによって気落ちしたり、失望してしまうことが多いのでは?と思う。
「艱難時代」について、少し参照してみましょう。
参照 ルカの福音書18:1,3,8
18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
◆「やもめ」とは、地上に夫がいない立場。再臨のキリストを待つ人のたとえ。
◆『私の相手をさばいて、私を守ってください。』とあるように、艱難時代の苦しみについて言われている。
◆艱難時代は正しいクリスチャンを色々と迫害する時。しかし「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」とあるように、「さばき」を下される。
◆けれども「神が聞いてくださらない」という風な思いになったり、攻撃が来たりする。しかし「選民」(神のしもべ)に決着を着ける、というのが主のことば。
◆また、「すみやか」と言われているように、神にあっては「三年半」はすみやか。
◆しかし「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と書かれているように、結局のところ皆途中で諦めたり、音をあげたりする。
◆艱難時代は結構クリスチャンが簡単に崩れていく。ゆえに崩されてしまうことのないように、今からきちんと祈っていきたい!
Ex:イエスさまの時代に、はじめは喜んで福音を受け入れていた群衆がさいごはひるがえった。けれども12弟子(イスカリオテのユダは裏切ったので正確には11弟子)は、さいごまで残った。
◆そしてかつてのことは世の終わりにも再現する。つまり「三年半の艱難時代」に多くのクリスチャンがバタバタとひっくり返っていく。
102:3 私の日は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃えていますから。
◆「炉」とあるように、試練が「炉」のように来る。
Ex:ダニエル書に書かれているダニエルの三人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、ネブカデネザル王の命令に背いて「金の像」を拝まなかったため(彼らは反キリストを拝まなかった型)、「火の燃える炉」の中に投げ込まれた。これはまさに「試練」とか「試み」と言える。
102:4 私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。
◆艱難時代は、まともなメッセージが無い。
Ex:反キリストのことを「キリスト」だと語るメッセージしかないのでは?
102:5 私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。
102:6 私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。
◆正しいクリスチャンは、ペリカンやふくろうのようになる。このことにはたとえの意味合いがあるので、参考までに見てみましょう。
参照 レビ記11:13‐18
11:13 また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、
11:14 とび、はやぶさの類、
11:15 烏の類全部、
11:16 だちょう、よたか、かもめ、たかの類、
11:17 ふくろう、う、みみずく、
11:18 白ふくろう、ペリカン、野がん、
◆18節で「ふくろう」「ペリカン」が出てくる。これらがどういう鳥なのか?について13節に書かれている。「忌むべき鳥」の一部だということが分かる。また、「鳥」は「霊的な事柄」をあらわす。ここでの意味合いとしては、「忌むべき」ということばから、「悪霊」だということが理解できる。
◆つまりこのことを通して言わんとしていることは、聖霊に導かれて歩みをしているクリスチャンが、「悪霊に導かれている」と言われる。イエスさまもベルゼブル(蝿:悪霊のたとえ)扱いを受けた。そんな風に正しく聖霊を受けているクリスチャンも同じように扱われるであろうと思われる。そう、聖霊に導かれていても、しかし艱難時代は「悪霊付き呼ばわり」をされるのである。
◆ゆえに人から良く思われようとする人は危ない。
ポイント:人からの評価は気にしない。悪口を言われても動じないようにする。これから正しい人が「カルト」と言われるから。つまり「善」と「悪」が逆転する時となる。
◆「カルト」と呼ばれることを気にするなら、ひっくり返されてしまう。
ポイント:イエスさまのように、ひたすら御心を行うことを優先していく。
102:7 私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。
◆屋根の上=仮庵の祭りの場所
参照 ネヘミヤ記8:16
8:16 そこで、民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。
◆「自分たちのために仮庵を作った」とあるように、仮庵の祭りに入っている。
◆艱難時代は「竜(蛇)の迫害」を逃れ、「荒野」(地下教会のたとえ)へ行くべき。地下教会、すなわち仮庵で養われる。
◆ただし「ひとりぼっちの鳥のようになりました」とあるように、皆に受け入れられるわけではない。少人数かもしれない。しかし仮庵の祭りを行う。
102:8 私の敵は一日中私をそしり、私をあざける者は私を名ざして毒づきます。
102:9 これはみな、私が、パンを食べるように灰を食べ、私の飲み物に涙を混ぜ合わせたからです。
◆そしり、毒づき、あざけりが来る。それが艱難時代。福音書に書かれているように、兄弟が兄弟を訴えることが起きてくる時。また、黙示録では火のように赤い馬について書かれているが、互いに殺し合う時でもある。
◆そしてキリスト教会で、「非難の押収」という霊が働く時。そのことに耐えられるか?ということが大事なポイントとなる。イエスさまが「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われたように、途中で「音」をあげることのないようにする!
◆でも、こういったことを前もって理解していれば、耐えられるのでは?と思う。
102:10 それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、あなたが私を持ち上げ、投げ出されたからです。
102:11 私の日は、伸びていく夕影のようです。私は、青菜のようにしおれています。
◆サタンの働きによって、「神がこういうことを許しているんだ・・・」と思ってしまう。
102:12 しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。
102:13 あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。
◆「定めの時が来たからです」とあるように、艱難時代に終わりが来て、神が正しくさばいてくださる。
102:14 まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。
102:15 こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。
102:16 なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ、
102:17 窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。
◆やもめの祈りに答えてくださる。
◆今まで身を隠していたキリストが再臨して、感嘆の的となる。
102:18 次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。
102:19 主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。
◆神はちゃんと見ている。
102:20 捕われ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。
102:21 人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。
102:22 また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。
102:23 主は私の力を道の途中で弱くされ、私の日数を短くされました。
102:24 私は申しました。「わが神よ。私の日の半ばに私を取り去らないでください。あなたの年は代々に至ります。
◆「捕われ人」とあるように、正しくクリスチャンの中で牢屋に入っている人がいる。しかもアメリカでは艱難時代に備えて、「強制収容所」も建設している。
◆また、「死に定められた者」ともあるように、「死刑」を宣告される人もいる。けれども「解き放つために」と書かれているように、そういう人も主の再臨の時に助けられる。
102:25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
◆「地の基」とは、教会のこと。
◆「天」も、教会のたとえ。
102:26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。
◆天地、すなわち教会は変わっていく、というのが聖書の主張。しかしカトリックはその逆を言っている。「教会こそ変わる」と。でも、これは嘘。
ポイント:教会に視点を置き、模範とするなら惑わされ、ひっくり返されてしまう。
Ex:カトリックは、「進化論」を推奨。一方プロテスタントはキリストを神と信じる教会は少数派だと言っている。でも、このようなことに従っていくなら、永遠の命を落とす可能性がある。
◆教会の変質についてこの箇所は語る。教会は変化する。「すべてのものは衣のようにすり切れます」とあるように、今教会はすり切れてまともではない、と言っている。
◆そして「あなたが着物のように取り替えられると」と言われているように、教会は取替えが可能。
Ex:イエスさまの時も教会が変わった。ユダヤ教の旧約の教会から新約の初代教会へと変わった。さらにこのことは、世の終わりにも再現する。古い教会(正統派の教会)は過ぎ去り、新しい教会(仮庵の祭り、すなわち地下教会)が出来る。そしてこちらにポイントがある。
102:27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。
◆神は変わらない。
102:28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」
◆「住みつく」とは、「天の御国」に住むことを言っている。
◆そしてここで言われていることは、「他の教会」(古い教会、すなわち正統派と言われる既存の教会のこと)は住みつかない。しかし主のしもべ(キリストに堅く着くクリスチャン)は住みつく。
Ex:イエスさまの時に、会堂ではなく地下教会をしていた12弟子(イスカリオテのユダは除くので正確には11弟子)は「天の住まい」に住みついた。
ポイント:イエスさまのしもべ、弟子の歩みをすることに御心がある。
◆しもべとして歩む人々は神の前に堅く立つ。ゆえに主に仕える歩みに大きなポイントがある。
◆本日の午前の礼拝において第一ペテロの2章で学んだように、「しもべ」になっていくときに、自分の好きなこととは両立はしない。しかしキリストのために「命」を失うなら、「命」(永遠の命)を得る!つまりキリストのために「犠牲」を払うなら、「永遠の命」を得る。これこそが「キリストのしもべの歩み」と言える。
◆「しもべ」として歩んでいくときに、見た目は損かもしれない。しかしベストな歩みと言える。
ポイント:もっとも大事なことは、「永遠の命」を得ること!
レムナントキリスト教会
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