詩篇88篇 2014.12.7

 

歌。コラの子たちの賛歌。指揮者のため。マハラテ・レアノテの調べに合わせて。エズラフ人ヘマンのマスキール

 

88:1 主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。

88:2 私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。

88:3 私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。

88:4 私は穴に下る者とともに数えられ、力のない者のようになっています。

4節「穴」ということばについて

参照 創世記37:2224

37:22 ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。

37:23 ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、

37:24 彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。

ヨセフが投げ込まれた→ヨセフはキリストの型、ちなみにユダがヨセフを売った、そしてキリストの時もイスカリオテのユダが銀貨30枚でキリストのことを売った

十字架に付けられたあと、キリストがほら穴に投げ込まれた型でもある

キリストの苦難として88篇を読んでいくときに、ぴったり符号する

キリストは何の罪も無かった、でも、主は付けられるべくして十字架に付けられた、それは私たちの罪のため

キリストは命を失って穴に投げ込まれた、ということを霊において理解するときに、歩むべき方向が分かる

私たちはキリストから恩を受けた、ゆえにキリストに少しでも恩を返していきたい

捧げていくときに、キリストの贖いがリアルになっていく

私たちのできるかぎりことをしていくときに、すべてのことは益になる

 

88:5 死人の中でも見放され、墓の中に横たわる殺された者のようになっています。あなたは彼らをもはや覚えてはおられません。彼らはあなたの御手から断ち切られています。

 

 

88:6 あなたは私を最も深い穴に置いておられます。そこは暗い所、深い淵です。

主も黄泉に下られた、それは私たちのため

人は結構自分をアピールする

でも、主は謙虚なお方なので、普通に読んでいたら分からない、でも、読み取っていくことにポイントがある

 

88:7 あなたの激しい憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波であなたは私を悩ましておられます。セラ

私たちの罪の憤りが、キリストの上にかかった

参照 イザヤ書53:4‐9

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

これはキリストに対しての預言

キリストが受けた痛みのこと→旧約の小羊の贖い(罪の身代わりとなって、死ぬ必要の無い羊の血が流された)

私たちが思っている以上に、私たちの罪は深刻、キリストが私たちの代わりに罰を受けたことは霊的に見ていきたい

 

88:8 あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌みきらう者とされました。私は閉じ込められて、出て行くことができません。

これも主が負った痛み、心の苦しみ

親友:知人

人からの評判が悪くなる、という痛み

参照 マタイ27:22,23

27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」

27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。

群衆は一緒にパンを食べた人たち、しかしイエスに対して手のひらを返し、「十字架に付けろ!」と憎しみをこめて言った、そして実際にこういう面はある

本当に主の働きを担ったり、正しく歩むなら、親友から裏切られたり、弟子たちから逃げられたりする

そして主は門の外で苦しみを受けた、これは「村八分に会った」ことと同じ、仲間に入れてもらえない、こういう面もある

キリストはこういうことを私たちにしてくださった、神が愛を注いでくださった、でも、私たちもキリストの足跡を追っていく

私たちも陣営を出て、キリストの元に行く→主の働きや歩みをするときにこういう面もある、実際に起きる

正しく行って、追い出されるのは聖書的

 

88:9 私の目は悩みによって衰えています。主よ。私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています。

88:10 あなたは死人のために奇しいわざを行なわれるでしょうか。亡霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ

88:11 あなたの恵みが墓の中で宣べられましょうか、あなたの真実が滅びの中で。

88:12 あなたの奇しいわざが、やみの中で知られるでしょうか、あなたの義が忘却の地で。

主も、ヨナのように三日間地にいて、死を経験された

 

88:13 しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。

88:14 主よ。なぜ、私のたましいを拒み、私に御顔を隠されるのですか。

 

88:15 私は若いころから悩み、そして死にひんしています。私はあなたの恐ろしさに耐えてきて、心が乱れています。

若い頃から悩みの中にいた

主の働きを担うときに、結構大変な人生を担ったり、結構人からのけ者にされる

旧約聖書にアザゼルが出てくる

参照 レビ記16:10

16:10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

アザゼル:スケープゴート(皆の身代わりにひどいことを言われる)

生きたアザゼルを放って、贖いをする

アザゼルが苦しみを受けて、他の人の贖いをする

参照 レビ記16:2022

16:20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。

16:21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。

16:22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。

アザゼルについて

すべての罪をアザゼルは負う

アザゼルになったやぎは他の人の罪を負って、苦しみを受けてしまう

主は正しいお方、でも人生の中で重荷を負った、人の咎を負って大変な人生を送る

アザゼルは異色の方法

生きた中で、人の贖いをする、主ご自身もそうだった

 

88:16 あなたの燃える怒りが私の上を越え、あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。

88:17 これらが日夜、大水のように私を囲み、私を全く取り巻いてしまいました。

88:18 あなたは私から愛する者や友を遠ざけてしまわれました。私の知人たちは暗い所にいます。

踏んだり蹴ったり

人からの優しいことや認められることを奪われる歩み、主がそうだった、弟子たちに逃げられ、十字架に付けられた、そして私たちもその歩みに連なる

生きている間も人の罪を負い、非難中傷、異端扱いをされる

主の犠牲は大変なもの

だからと言って、これは強制でない、自発的なもの

霊で理解し、キリストのために仕えたり、恩に少しでも報いていくときに、歩むべきクリスチャン生活に入る