詩篇91篇 2014.12.28

 

91:1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。

91:2 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。

このようなクリスチャンの歩みがある、しかし反面このことを気にしない歩みもある

あるクリスチャンは神さまを頼みとし、避け所とする、しかしあるクリスチャンは特別神さまに拠り頼まずに自分の力で歩む

たしかに世の中の方法は「独立独歩」、しかしこれは聖書のみことばに反する生き方

でも、みことばがもっとも正しい、みことばを行うことが正しい

ゆえにこういう歩みを志していくなら、もっとも正しい

これは他のことばとも通じる

参照 ヨハネの福音書10:11(新共同訳)

10:11 わたしは良い羊飼いである。

主はまことの羊飼い、そしてクリスチャンは羊にたとえられる

・・・「羊」について・・・

羊は弱い動物、ゆえに飼い主がいないとダメな動物、たとえばひっくり返ったらそのままなのだそう

羊に関してこんな話がある、ある人が羊を2匹飼っていて1匹は紐が絡んで死に、もう1匹は雨に濡れて死んでしまったそう

私たちクリスチャンもそんなもので、もし飼い主であるキリストがいないなら、同じように霊的に死んでしまう可能性がある、なぜか?私たちが真に戦うのは血肉ではなく、サタンだからゆえにキリストを頼らない、避け所としない、というときにあっけなくやられてしまう

それゆえに私たちは、自分が羊のようなもの、弱い者だということを理解して、羊飼いを必要として歩むことに大きなポイントがある

もし書かれているように歩むなら、守られる

ペテロやヨハネやヤコブのように、ひるがえって幼子のようになる

幼子には親が必要なように、私たちもイエスさまを必要とし、頼りにして歩むなら真からの助けを得る

多くのクリスチャンの問題点:見えるところしか見ていない、しかし私たちの惑わしはサタンから来る

しかし真に神を隠れ場とするなら、サタンからのインチキから守られる

ポイントは全能者を隠れ場にするか?主を頼りにするか?それによって変わってくる、本当にそうしていくなら、そのときどきに神からの助けを得る

 

91:3 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。

ここに書かれている「わな」は、私たちと大いに関係がある

参照 エレミヤ書5:26,27

5:26 それは、わたしの民のうちに、悪者たちがいるからだ。彼らは、待ち伏せして鳥を取る者のように、わなをしかけて人々を捕える

5:27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きでいっぱいだ。だから、彼らは偉い者となって富む。

こういう「わな」が仕掛けられる

教会には、そう、「教会」と名の付くところには・・・一見どの教会にも恵みが満ちているように思える、しかし午前のヤコブの手紙3章で学びをしたように、「教師の舌」は「死の毒」に満ちており、油断も隙も無いというのが聖書での主張ということを、よくよくとらえておく

そして最悪、「舌」は「ゲヘナの火」で焼かれてしまう

「待ち伏せして鳥を取る」とあるように、鳥が「わな」に掛けられる

ちなみに「家」は「教会」のたとえ

ゆえに世の中もそうかもしれないが、「教会」も、油断も隙も無いことを理解する、その理由は、あらゆるおかしな教えが教会で語られているから

それゆえにクリスチャンの思い込みや常識で、教会やクリスチャンを見たり判断したりせずに、みことばの視点で見たり判断したりする

そして神を隠れ場&助けとするなら偽りを理解する、「わな」から逃れたり守られたりする

教会は全く安全ではなく、あちこちに「わな」が仕掛けられている 

Ex:カトリック→地獄は無いとか進化論は正しいと言っている、しかしこれは「わな」と言える

きらびやかな会堂とか、立派なパイプオルガンがあるとか、外面的な事柄や人間的な事柄だけを見て判断しないこと、そして「わな」の裏には必ずサタンがいることをお忘れなく、ゆえに巧妙、しかもサタンは詐欺がうまい、ゆえに人間的なことだけを見て変な自信を持たずに、神さまに正しい方向へ行けるように祈る

 

91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。

これはたとえ

「聖霊」は「鳥」や「鳩」にたとえられる

聖霊のひとつの性質:鳩のようにパタパタパタッと来る、そして去って行ったりする

私たちクリスチャンには、聖霊の助けがある→色々な方法で語りかけ、促し、悟りを与えてくださる、時には物理的な危険とかも語ってくださり、助けてくださる

この方を自分助け手として歩むなら、聖霊が助けてくださる

 

91:5 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

91:6 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。

91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。

91:9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

今はまさにそういう時代→おかしな教理や霊に倒されていたり、やられていたりしている

でも、レムナントはそういうものに近付いていない、益々離れている

ある人は倒され、ある人は守られる、しかしこれは個々における人の報いとも言える、おかしなものを掴む人は報いとして掴んでいる、黙示録に「とりこになるべき者は、とりこにされて行く。」(ヨハネの黙示録13:10とあるように、変なものにとりこにされる、何の落ち度も無いのにおかしな教理や霊は来ない、ゆえに正すべきところは正す、理由無しに惑わしの霊は来ないから、間違えてしまう人にはそれなりの理由がある、たとえば傲慢や高ぶる思いとかを敵に掴まれ、足をすくわれる

しかし神を避け所とするときに、おかしなものから守られる

 

91:10 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

天幕:教会

正しい教会には災いや、えやみが来ない

 

91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

91:12 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

主を助けとしていくときに問題や惑わしが来ても、助けや守りがある

 

91:13 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

災いに入らないだけではなく、敵の働きを潰す

獅子とコブラを踏みつけ:「獅子」はサタンのこと→サタンの計画を踏み潰す

若獅子と蛇とを踏みにじろう:「蛇」はみことば、教理に関することを言っている→おかしな教理を踏みつける、主の知恵によって、そして主を避け所としていくときに、サタンのあらゆる惑わしを踏みつける

 

91:14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

91:16 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

主のみことばを堅く守るときに、神を愛することになる、そうするなら特別な守りや助けが与えられる

参照 ヨハネの福音書14:23

14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

終わりの時代はサタンの策略が大いに許されている時代、特に霊的な事柄に気を付ける

今は悪い霊の働きが許されている時代

正しく歩まないときにおかしな霊にやられる

Ex:悪霊からの預言を語ったりする、悪霊によって奇蹟や不思議やしるしを起こしたりする

そして恐ろしいことに、それが本人にとっては聖霊の働きに見えてしまう、しかしその行き着く所は「滅び」となる、悪霊もしるしや奇蹟を起こす、ゆえによくよく気を付ける

多くの人が倒される時代、しかし例外的に神を隠れ場として、幼子のようになる、そうするなら助けを得る