1ペテロ3:10~22 2015.3.29
3:10「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
これは、我々の舌を抑える事。悪を言わないという事は命に通じる。
永遠のいのちを愛するならば、舌を制することを求めて行きたい。
3:11悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。
悪から遠ざかり、善を行なう。
「平和を求めてこれを追い求めよ」と言うように書いてある。
KJVでは、その後に「何故なら」という言葉が入っている。
何故なら、
3:12主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
我々は平和を求めて行くべき。この平和とは何を対象としているか。
人との平和はもちろんだが、「主の目は義人の上に注がれ」と書いてあるので、要は「主との平和」と言うように読み取れる。
なので、我々は全ての人との平和を求めて行くべきだが、特に「神との平和」というのが、クリスチャン生活の祝福や呪いに関連して、大きな意味合いを持つ。
国同士でも、戦争と平和がある。
戦争状態だと、爆弾が落ちて来て、人が殺される。
何を言っているかというと、11章において、「平和を求めてこれを追い求めよ」
人からの平和もそうであるが、我々は神との平和を求めて行かなければならない。
平和というのは、戦争状態ではないという事。
神と戦争をしてはいけない。右を見ても、今日を見ても、明日を見ても災いがある。
何故なら神と戦争をしている人がいるから。
12節の後半に「しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
「悪を行なう者に立ち向かう」とは戦争である。
戦争状態だと、ろくな事が起きない。
聖書の他の箇所では『「朝には、ああ夜であればいいのに」「夜寝る時には、ああ朝であればいいのに」 これは、神との戦争状態。
なので我々が、神を相手に戦争を行なっているかどうか、これは大違い。
なので、「平和を求めてこれを追い求めよ」という事。
だから、戦争の気運を無くさなければならない。
今日本は、政策によって、戦争の気運が高まってきている。
神に対してはそうであってはならない。 平和を求めて行くのが正しい。
戦争状態に近いというのは、例えば、今の韓国、中国との関係。
平和を求めてはいない。
神様との関係に、平和を求めていく時に祝福がある。
平和を求めて行くうえで一つ大事な事は、「主の目は義人の上に注がれ」であるから、正しい歩みをしていく事が、神との平和を求めて行く事。
「義人」でないとはどういう事か。 それは、勝手に神様の言葉を変えてしまうという事。
神の御前に正しくない。
典型的な例は、艱難前携挙説のように、御言葉と違う事を言うこと。
これでは祝福は無い。
しかし、たとえ、人から嫌われても、正しく神の言葉に立って行く時に、神との平和を確立していく。どんどん仲良くなって、神様から色々プレゼントがもらえる。
我々は、神の憐れみによって、艱難前携挙説が誤りである事を示された。
神様が、色々な事を教えて下さる。 喧嘩状態ではない。
それは、教会としても、個人としてもそうである。
義とは、神の前に正しいという事。 これを求めて行きたい。
もう一つ、正しい事の例は、聖書に書かれているならば、同性愛は、神の御前に喜ばれない。
御言葉がはっきりと言っている。
「主の目は義人の上に注がれる」 正しい事を言って行くのが義人という事。
口を閉ざすのは義人ではない。
ニュースレター、月刊バイブルも、すぐ性格が出る。
人からは怒られるかもしれないが、しかし、目が注がれて行く。
神と戦争状態にならずに、平和を求めて行く。
きちんと主の義に立って行くのが、主の祝福を受けるポイント。
3:13もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
なので正しく行なって行く事が大事。
3:14いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
義のために、苦しむ事がある。
義とは、正しく歩む事。
その時に、いやな目に遭ったり、苦しむ事があっても、それは幸いな事。
「幸い」という言葉は、聖書の中では、大事な事柄。
マタイ
5:10義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
ここにある「幸い」という言葉が、ペテロの手紙に書いてある「幸い」と、全く同じギリシャ語が使われている。
5:11わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
5:12喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
キリストの義。
例えば同性愛をこの世の中(日本含む)で受け入れらる風潮になって来ている。
日本に災いが起きた時、それは神からの罰。これを聞いて怒る人は多いが、聖書が語っている事は、語って行くしかない。
津波も原爆が落とされた事も、祝福ではない。 やはり、悔い改める事柄がある。
義の事を言うと、迫害されたりする。その時は、聖書的な視点で、このような事を見て行きたい。
人間な視点で物事を見るならば、キリストのために悪口を言われたり、ののしられたり、迫害されたりしたならば、酷い目にはあっているけれども、これは神の視点で見るべき。
我々は、この世の報いを求めて行ったり、この世で皆に褒められる者となったりとか、この世でノーベル賞をもらとか、この世で一番大きな教会を建てる者になるために、クリスチャン生活を送っているわけではない。 天での報いを求めている。
両方得られれば良い。地上でも尊敬されて、天においての報いを得られればいいのだが、大抵は、片方しか得られない。 イエス様はまさにそう。
地上ではあらゆるものを失ってしまった。名声も失い、命すら失い、着物まで取られてしまった。
しかし、天においては高い位についた。
我々も、求めているのは天における報いだが、そういう意味では「天では、あなたがたの報いは大きいから」
我々は迫害される時に、どの様な態度を取るべきか。
天の事を見、宝くじに当たったみたいに喜ぶという事。
これは、皆が受ける者ではない。
天において受ける報いは大きいこと。 我々はそれを求めている。
そういう意味では、ラッキーなポイント。
アメリカでは、路傍伝道していただけで逮捕される。
悪く言われたりもする。
そういう人達は、神においては「喜び踊りなさい」と言われるレベル。
人間の視点ではなく、神の視点で物事を見て行きたい。
ここに、我々の信仰と忍耐がある。
義のために迫害されるという事を見て行く。
「義のために迫害される」 これはどういう事か。
5:13あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
塩は大事。 食物も、塩があったら腐らない。
それと同じように、我々も、地の塩。
腐らせない部分。それであって、クリスチャンが、腐敗とか、悪い所に入って行くのをとどめられている。例えば同性愛。
我々は、そういう役目を任されているという事を覚えておく。
角笛ニュースレターもそう。
艱難前携挙説に、どこまでも傾倒するなら、穴(ゲヘナ)に落ち込む。
教える者も、教えられる者も。だから、気を付けるべき。これは義。
しかし、誰かがその様に、塩の役目をして行かないと、キリスト教会は腐ってしまう。
右も左も、インチキの教理がある。それをストップするために言っていく。
それが、塩の役目。 すると、怒る人もいる。
塩は厳しいが、それによって腐敗を食い止める。
角笛ニュースレターによって、腐敗から脱した人もいる。
だから、この働きは塩になっている。
しかし、我々が塩気をなくすと、大変な事になる。
「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」
レムナントは塩気をもって初めて何ぼである。
「角笛」は、塩気のある文章を書いて初めて何ぼである。
甘い事を言い出して、砂糖になってしまっては意味がなく、捨てられてしまう。
5:14あなた方は世界の光である。山の上にある町は隠れる事が出来ない。
我々はこういう存在。
警告など、塩気のある働きを成す時、隠れる事が出来ない。
知らないふりは出来ない。
5:15また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
なので、燭台とは今で言えば、蛍光灯。 それが毛布の下に隠れることはあり得ない。
蛍光灯を天井にぶら下げておけば、暗い時も明るくなる。
我々は、そういう役目。 役目は灯り、燭台。
隠れようがない奉仕。
そういう意味では、迫害は真っ先に来てしまうかもしれない。
しかし、天における報いは、「よろこびなさい」というレベルなので、これは、見て行きたい。
1ペテロ
3:15むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
3:16ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
ここで弁明という言葉が使われている。
「弁明」の原語の意味合いは、法廷での弁明と同じ意味合い。
法廷で訴えられた時の弁明と同じ。
我々が一般的に、この世の人に対して、我々のキリストにある希望という事に関して語る用意をしているという事も、一面大事。
もう一つの意味合いは、法廷用語なので、訴えられたりした時の事柄に関連して来る。
その時に、極端な話、法律で訴えられた時、または、「クリスチャンが同性愛者を迫害している。」などと訴えられたりした時に、弁明できる用意をするという事、「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。」 これは、法廷用語に繋がる。
法廷であれば、皆が見ているという事。
「そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」
逆に我々がクリスチャンとして、あるべき姿で弁明して行く時に、それが証になって行くという意味合いがある。
こういう面も是非見て行きたい。
マタイ
10:16いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
10:17人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂で鞭打ちますから。
10:18また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。
神様は、ある意味では、正しい神の言葉、証のためにそういう、訴えられるような事を通して、
クリスチャンを通して、その時代の人々に、正しい事を証したり、神の言葉を伝えたり、そういう事に用いる。
我々は、訴えられたり、議会に連れて行かれたりする。
パウロが言ったように、我々は、生きるのも死ぬのもキリストの為であると、「生きる事はキリスト、死ぬ事も益である」と書いている。
そういう意味ではパウロもそうであった。
彼も訴えられたりしている。 そこで逆に、議会を取り仕切っている人に対して証している。
なのでやはり我々も、パウロを模範として心がけていくのが大事。
日本においても、400年ほど前に、豊臣秀吉のころ、最初の殉教者を出している。
26聖人と呼ばれる。 彼らの証を通して、多くの人が、神に触れたり、キリストを知った。
豊臣秀吉による迫害は、逆効果となった。
1ペテロ
3:17もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。
3:18キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
キリストは神の御心の中で、善を行なって苦しみを受けられた。
3:19その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
3:20昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
「死後に救いがあるか」論議を呼ぶ箇所。 セカンドチャンス。
ここを読むと、一理あるかと感じる。だが全面肯定ではない。
聖書に書いてある事は、我々がどう捉えているかの問題。
ここは、冷静に見て行きたい。
ここに書いてある事をまとめると、一つは、「キリストは、霊において」なので、キリストは霊で宣教した。 御言葉を語られた。
肉体では死なれたので、霊で行かれた。
そして、「捕われの霊。」つまり、牢屋の中にいる霊。
それは、キリストが御言葉を語った以上、信じたかどうかは別として、「聞いた」という事。
このあたりは事実。
何で「捕われの霊」か、それは、神に従わないから捕われる。
聖書が言っている範囲というのは、理解しなければならないのは、一つは、肉体を持っておられたならば、肉体をもって霊の所へ行くというのは現実的ではない。
イエス様が霊になった時に、宣教に行ったと書いてある。 これは事実。
もう一つは、捕われの霊というのは、ノアの時代のものであり、イエス様の時代より数千年も昔の霊。 しかし、そういう霊というのは、霊なので、死んだ人々。
その人達も御言葉を聞いたという以上、聖書がはっきり言っている事は、死んだ人も福音を聞いた可能性があるということが言える。
イエス様が、福音を述べ伝えに行くという事は、いくら喋っても、一人も改心しないならどうにもならないが、福音を述べ伝えに行ったという事は、僅かでも救われる可能性があるという事。 福音は、全ての人が信じるわけではない。 しかし、捕らわれの霊の中でも悔い改める可能性のあるものも出て来る可能性がある。 このあたりは言える。
我々の回りで死んだ人も、霊において、福音を聞く可能性もあるのかも知れない。
聖書の他の所では「死者のためにバプテスマを受ける」という事も書いてあるので、ダメもとで、福音を伝えたが、信じないで死んでしまった人、そういう人の救いもあるかも知れないので、そういうケースも祈っていいのではないか。
もう一つ書いてある事は、何で牢屋に入ってしまうかというと、「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった」
ちゃんと神の言葉に従わずに、罪を悔い改めようとしなかった人たち。その結果、牢屋に入れられた。
聖書の他の箇所を見ていく時に、悪いことした人は、死んだ後、牢屋みたいなところに入るというのは、語っているよう。 この事は覚えておくべき。
我々が、キリストを信じて死ぬ時に、牢屋には入らない。
十字架につけられて、イエス様を信じた強盗がいる。
彼が「私の事を思い出して下さい」と言った時、イエス様は「あなたは今日、私と共にパラダイスにいる」と、イエス様は言っておられる。
キリストを信じた人はパラダイスに行く。
しかし不従順で、キリストを信じようとしないとか、罪を悔い改めようとしない者は牢屋に入れられる。そこでね罪の値を払う。
マタイ5:25
あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
5:26まことにあなたに告げます。あなたは最後の1コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
我々は、犯した罪の値を払うべきものだが、キリストを信じ、神と和解して、告訴するようないろんな律法とかそういうもので、仲良くなって和解して、後の世に入るべき。
しかし、そうしないなら、「あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。」
最後の1コドラント払うまでは、出て来られない。
「捕らわれの霊」と同じ言葉がここにも書いてある。
ノアの箱舟の時の霊とは、こんな形で、神と和解せず、悔い改めずにに死んでしまったので、牢屋に入って罪を償っている。 最後の1コドラント払い終えるまで。
御言葉の語られている所では「主はそこに宣教に行かれたので」とある。
したがって、主が宣教に行かれた以上、言葉を聞き、信じて、悔い改めて受け入れた人は、赦される可能性があるのではないか。
そういう意味で言うと、確かに、牢に入っているから、そこには全くチャンスが無いと言うのもまずいのではないか。
一応、ここまでは理解しておく。
御言葉の言われた事の範囲に留まるべき。
聖書は、罪を犯した人が死後に入る所は牢屋みたいなところ。
1万タラントの箇所でもその様な事が書かれてはいないだろうか。
100デナリ返さなかったからその人を牢屋に入れたしもべが、主人に「お前も赦してやるべきではなかったか」と言われ、1万タラントの借金が戻って来て牢屋に入れられた。
死後、我々が払う自分の罪の支払いをするという意味で、牢屋とか、牢獄とか、そんなニュアンスがある。
ヨセフはイエス・キリストの型であるが、ヨセフが牢獄の責任者のような事をしていた。
そういう意味で、牢獄にも、キリストの手が及ばないわけではない。
1ペテロ
3:21そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
3:22キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。
この節も大事な事が書かれている。
20節は、KJVでも日本語でも、箱舟で救われたという風に書かれている。
21節で、この箱舟は、型であって、それは箱舟は、バプテスマの型だと書いてある。
言わんとしている事は、ノアの洪水の時は、たった8人の人が救われた。
大洪水があった。
洪水で救われた人の共通点は何か。
皆箱舟の中にいたという事。
箱舟は、ギリシャ語で、契約の箱だという事。
ノアの洪水と、箱舟を通して語られている事は深刻な事。
世の終わりにも洪水が起きる。
それは水の洪水ではなく、霊の洪水。
その時に、箱舟に留まった者は、洪水を経ても、助かるという事。
なので、これから起きて来る霊の洪水は、大変な事となる。
今の時代はね箱舟は我々の目の前には無い。
今の時代はバプテスマにポイントがある。
21節で「その事」とは、箱舟の事を言っている。
箱舟はあなたがたを救うバプテスマを表した型だと書いてある。
今は、バプテスマが箱舟の代わりだと書いてある。
バプテスマとは何か。 染み透るという意味。
また、ほかの箇所では、あなたがたには、私は水でバプテスマを施すが、私の後から来る人は聖霊と火によってバプテスマを授けると言っている。
しかもこの箇所には、バプテスマ・・・と言っても、肉体の汚れを取り除くとか、風呂に入って垢を落とすとか、そういう事を思ってはいけないと書いてある。
染み透るという事は、聖霊が染み透るという事。
聖霊の染み透った人は、箱舟に入って、救われたように、これからの霊の惑わしの時代に、洪水を経ても救われる。
しかし、染み透り方が少ない人は、危ないという事。
聖霊に染み透っている人は、いのちを得、惑わしの霊の洪水の中でも命を得る。
染み透るには、よく祈って聖霊によく触れること。
そういう人は、このような洪水の時代でも、命を得る。
この、洪水の事が、これからの時代、非常に大事なポイントとなる。
バプテスマのポイントは、キリストもそう。
やはり祈って、聖霊に触れるのがポイント。
逆に惑わしの霊の洪水が来るという事も、啓示で示されている。
その為の備えをする。
祈って聖霊に触れる事。
バプテスマは、聖霊に染み透るという事。
それは、いのちを救う。
レムナントキリスト教会
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