Ⅰペテロの手紙4章1~8 2015.4.5
4:1このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
この様に、キリストは苦しみを受けた。
正しい事を行ないながら尚且つ、主は苦難を受けられた。
「同じ思いを持って武装しなさい」と書いてあるので、世の終わりの時というのは、武装、すなわち心構えをして行かなければならない。
それは、正しい事をして行っても、苦難に遭うという事。
逆の事を考えていたり、思い込んでいる時には、備えにならず、武装にならず、失敗してしまう。艱難前携挙など、勘違いしていると、何の備えにも、武装にもならない。
しかし、正しいのは御言葉の言っている事。
ここに書いてある事は、明らかに、キリストは、肉体において苦しみを受けたとある。
「同じ心構え」で用意せよと言っているので、場合によっては我々も、艱難時代には、肉体において苦しみを受ける可能性があるという事。
今のキリスト教界に、働いている終末の教えは、全く偽預言者の教えである。
艱難前携挙説を受け入れる事は、正しい備えを崩す事になる。
正しい答えは、この説でペテロが言っているように、キリストと同じように、場合によっては、
正しい事をしていても尚且つ、肉体の苦しみを受けるかも知れない。
そういう心構えでいること。
そうすれば、多少の事があっても、想定内。
そうでなく、勘違いの「終末の日はハッピー」などと思っている人達は、皆、虚を突かれて備えなしで、どんどん倒されて行ってしまう可能性があるので、このあたりは捉えて行きたい。
1節の後半で、「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」と、書いてある。ここに書いてある事は、聖書の方法すなわち神様の方法、場合によっては、教育方針。
いろんな家に、いろんな教育方針がある。 放任主義、スパルタ主義など。
真の羊飼いである神様の牧会される方法は、どういう方法化というと、鞭打つ事を控えないで、躾を怠らない。この事は、正しく理解していく。
神様は、皆に対して、きちんと、愛によって、見捨てておられない。
へブル書に書いてあるように、実の子として扱っておられるので、時に応じて鞭打ったり、厳しい事を、的確に行なわれる。
1つ知らなくてはならない事、クリスチャンが勘違いしている事は、人間の親の体罰は分かるが、神様の躾は目に見えず、分からないが、はっきり箴言に書いてある。
「鞭を控える者は、その子を憎む者である。」
主が、一人びとりを、真の羊として、御自分は真の父親として牧会しておられる。
神は愛だが、厳しい愛であり、躾をともなう愛であるという事は、よくよく理解する。
皆が誰でも、罪に陥った場合、よほど見放されていない限り、鞭打ちが来る。
いろんな形の鞭打ち。場合によっては、体に来たりする。
それを通して、ここに書いてあるように、「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」
思い当たる事がある場合、神の鞭打ちが来たらば、病気になってしまったり、大変な目に遭ったりしたならば、罪とのかかわりを断つ事が正しい。場合によっては、何が罪であるか分からないという事がある。しかし、神様が的確に罰を下してきた時は、悔い改めて行きたい。
それを通して、「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」
結果として、罪とのかかわりを断っていく事が正しい。
頑なになってしまってはならない。
そういう意味ではクリスチャン生活は単純。
一つは、皆が本当に、真の羊である時に、罪に入って行く時には、鞭打ちなど、厳しい、肉体に来るような、怪我や病気などが来たら、罪とのかかわりを断てば良い。
あらゆる起きて来る事柄に、偶然はない。
4:2こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
クリスチャン生活の歩みの中で、その人の歩む動機、歩み方に関連して、ここでは2種類の事が書かれている。
一つは、人間の欲望、もう一つは、神の御心。
クリスチャンであっても、自分のしたい事、自分のしている事があるかも知れない。
場合によっては、エバの様に、見るに良く、食べるに良く、賢くなるにふさわしいなどの事柄が優先してしまう事があるかも知れないが、そういった歩みもある。
「人間の欲望の為ではなく、神の御心のために過ごすようになるのです。」とあるように、神の御心を行なうという事を優先した歩みもある。
この二つは相反しているが、クリスチャン生活の中では、どちらか一つ。
自分の意に反してでも、神の御心を優先していくという歩み方に、ポイントがあり、また、永遠の命に明らかに通じている。
極端な例は、イエス様のゲッセマネの祈り。
ルカ
22:42「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
主は、神の御心を優先して行った時に、入るべき所に入り、神の右に座され、受けるべき栄光を受けた。 端的に言うなら、我々のクリスチャン生活の方向としては、自分の考えと違うが、父なる神の御心を優先して行った時に、結果としては、我々は、栄光の道に入って行く。
それは、永遠のいのちに通じる。
レムナントも100%出来ているとは言えないが、何とか、いろいろ失敗しながらでも、自分の欲、考えでなく、神の御心をかろうじて優先することが出来た。
その結果は、今となっては大きな恵みだと思う。
喩えの理解、終末の色々な啓示をそれを契機に受けられるようになった。
自分のしたい事と、神の御心を行う事は、場合によってはぶつかる事がある。
しかし、神の御心を明確に示され、主がそれを行なう力を与えて下さるなら、行なった方が大きな恵みに入って行く。
自分のしたい事、神の御心。この二つは相反している。
自分のしたい事すなわち、「肉の欲望」をずっと追求するという歩みと、神の御心を行う歩みというのは、反比例しており、ぶつかっており、互いに衝突状態であるため、両方を優先するという事は出来ない。
どちらか一つを選ぶしかない。
大体は、自分の思う事とやりたいことを優先してしまうかも知れないが、何とか、主の憐れみで、神の御心を優先できる方が良い。
Ⅰペテロ
4:3あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
4:4彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
4:5彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。
5節で書いてある事は、裁きの時が来るという事。
人の歩みに関して裁きの時が来るというのが、聖書が明確に語っている事。
頻繁に来るものではない。
へブル書では、「人には一度死ぬ事と、死んだ後に裁きを受ける事が定まっている」
5節にある、「生きている人々をも死んだ人々をも」裁くという事に関連して他の箇所を見て行く。
黙示録
20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
20:13海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
20:14それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
ここで見たい事は、死んだ人々。 我々は今、主の憐れみによって、肉体の命を持っているが、
人間の寿命は短い。死んだ人の方がずっと多い。
死んだ人たちがどうなるか。
「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。」
この御座というのは、裁きの御座。
裁判所に立っているようなもの。
言わんとしている事は、2000年前に死んだ人も、ノアの時代に死んだ人も、皆、これから来る裁きの時、全員集められる。
そういった意味では、死んだ人に対する裁きは、まだ行なわれていないと思うのが正しい。
まだ、裁判前。
我々生きている者も、裁判前。
死んだ人も、クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、皆、裁きの前。
黙示録のこの時は、まだ未来の事なので、どの人に対しても裁きはまだ来ていないというのが正しい。
12章において、「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」
なので、どんな人の行ないも、みな記されている。
そして、13節において、「海はその中にいる死者を出し、」という事。
海で死んだ人も、そこから出される。
「死もハデスも、その中にいる死者を出した。」
ハデスというのは、死んだ人たちがいる所。 死んだ人は死んだ人で滞在している所がある。
クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、ハデスにいる。
良いさばきであろうと、悪いさばきであろうと、皆、裁きを待っているという事。
14節「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
怖い箇所であるが、「死もハデスも死者を出した」
これは、死んだ人は、死やハデスにいる。
書いてある事を見て行くと、「死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
基本的には、皆入って行く。その時はまだ未来の事。
しかし、そこに例外がある。
15節「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
例外的にいのちの書に名の記されている人。
我々は、これから「例外」に入らなければならない。
この事は覚えておく。
Ⅰペテロ
4:6というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。
ここでも少し、聞きなれない概念がある。
死んだ人も福音を聞く。
ノアの時代の洪水で死んだ人々に対して、キリストが霊において行かれて、福音を伝えた。
同じ事が再度書いてあるので、聖書に書かれている事は、そのまま受け取るべき。
これらを通して理解できることは、はっきり言える事は、「死者も」福音を聞く、という事。
死者とはどんな人か。 我々の前に死んだ人はすべてそう。
明治時代に死んだ人も、死んだ後に福音を聞く。
生きている間に、福音を信じなかった人々。
学校で言えば追試のようなもの。
生きている間に福音を信じるのはベスト。
しかし、聖書によると、場合によっては、そうでない人々に関しても、死んだ人に対してでも福音が伝えられると書いてあるので、それはそのまま受け取るべき。
その結果として、「人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」
これがどういう意味かというと、ノアの洪水の人々の事を考える。
肉体においては洪水の裁きを受けて死んでいる。でも、霊において生きるために、この人々に福音が伝えられた。
生きている時に福音を信じなかった人(福音を聞いていない人?)にも福音が伝えられるという事は、聖書が語っている事なのでそれはそのまま受ける。
また、福音が伝えられる以上、やはり死んだ後福音を受け入れる人と、そうでない人もいるかも知れない。死んだ後に救われる事も、あり得る。
こういう概念も覚えておく。
聖書を逸脱するつもりはない。
それをもって、我々がどの様に適用するかというと、「祈る」
福音を伝えられずに死んだ人の為に。
人間の寿命は非常に短い。ほんの100年くらいしか生きない。
イエス様以来2000年の間のほんの短い間。
もし、示されたら祈ること。
生きている人でも死んだ人でも、祈りを通して救われることがある。
4:7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
万物の終わりが近づいており、世の終わりが近づいているので、祈りを備えておく。
また、心を整え身を慎む事が正しい。
何故なら、世の終わりの時というのは、この世の人にもそうであるが、キリスト教会やクリスチャンに対しても、大いに背教が起きて来たり、曲がった所へ行ってしまったり、惑わされ、永遠のいのちを正しく保つのが難しい時代が来る。
4:17なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
4:18義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
非常に厳しいさばき。
そして、永遠のいのちを得るのが難しい時が明らかに来るということ。
神の家から裁きが始まって、その中で、神の御前に義とされて残る人は、クリスチャンの中でも少ない。その為に我々は祈りのために、身を慎む。
いくら聞いてきても、最後にこけたらお終い。
「祈り」は、非常に大事なポイントであるので、祈りが弱い人、祈らない人は、悔い改めて、祈る習慣をつけること。
御言葉を行なっている人が強い。
自分の頭できちんと理解してると思えるかもしれないが、そうではない。
きちんと祈っていないと出来ると思える事も出来なくなる。
祈る習慣をつけていれば、いざ惑わしが来た時なども、正しく対応していく事が出来る。
4:8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
愛は、多くの罪を覆う。
「多くの罪を覆う」とはどういう事かというと、他の人の罪をも覆うという事もあるかも知れない。
また、我々が主を愛したり人を愛していく時に、我々が犯した罪が、覆われて行ったり、赦されて行ったりする事もあるかも知れない。
ルカ
7:36さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
愛は多くの罪を覆うと書いてある。
我々が他の隣人を愛して行く時、相手の人の罪も覆われるかも知れないし、我々の犯した罪も覆われるかも知れない。
それは、イエス様に対してもそうではないだろうか。
二人の人の事が出て来る。
たくさん罪を犯した女の人。 そしてパリサイ人。
ポイントは、この女の人は、パリサイ人よりずっとイエス様を愛した。そして愛の行ないをした。その時に、主は、「このたくさんの罪は赦された」と言われた。
しかもそれは、女の人の愛に比例していた。
愛には多い少ないがある。
この女は、多くイエス様を愛した。
それに関連して、主はこう言われた。
その愛の行いをしたその女に対して、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
愛の行いをする前ではなく、愛の行いをした後に言われた。
我々が、多くの罪を赦されたり、覆われたり、イエス・キリストを多く愛するという事は、関係している。
我々は、罪を犯してはいけない。 しかし、過去を変えられないというのも事実。
しかし、主を深く愛する中で赦されて行き、解決して行き、解放されて行ったり、罪が赦されて行くという事。
我々は過去に多くの罪を犯してきたかもしれない。
しかし、絶望する必要は無い。
主を多く愛する事によって、過去のたくさんの罪を赦されたり、緩和されたりする事がある。こういう事は、書かれている事なので覚えておく。
聖書は、意味なく書かれているわけではない。
主を深く愛する中で、どんどん罪を赦されたり、または、主に受け入れられたりする。
我々の人生は、過去を変える事は出来ないけれども、「それで絶望しろ」というのは、聖書の教えではない。
イエス様は「あなたの罪は赦されている」と言われた。
その様に主は見ておられるので、罪は犯すべきではないが、もしそれを自覚したら、是非、主を愛する中で、赦されて行ったり、解放されて行ったりという事をしていきたい。
レムナントキリスト教会
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