1ペテロ1:1~7 2015.2.8
1: 1イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
1: 2父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
ペテロは「選ばれた人々」に手紙を書いた。
聖書の中で「選ばれた人々」「選民」という言葉はよく出て来る。
この言葉についてみて行きたい。 ギリシャ語では「イレクト」
英語で「イレクション」とは、「選挙」。だから、「選ばれた人々」
選挙で選ばれた人と、選ばれない人とは大違い。
クリスチャンにおいても、神の御前に選ばれた人と、選ばれない人がいる。
何故なら、「選ばれた人々」と書いてある。
神の御前に選ばれた人と、選ばれない人は違う。このポイントは覚えておくべき。
「選ばれた」と書かれている以上、「選ばれない」人々もいる。
マタイ
22:14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」
他の言葉で言えば、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」
この事は、一つの原則。
我々は、神によって招かれるが、入るべき所に入って行く人は少ない。
きちんと留まったり、神によって選ばれる人は少ないのが現実。
22:1イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。
22:2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
22:3王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。22:4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
22:5ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
22:6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。22:7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
22:8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
22:9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
ここで、喩えが書かれている。イエス様のたとえ話を、ただのおとぎ話と取るべきではない。
なぜなら、現実に実現するから。
ここに書いてある喩えも、イエス様の時に実現した。
王は招待していたお客を呼びにしもべたちを遣わした時、結婚の披露宴をもつ。
結婚披露宴の婿は、イエス・キリスト。花嫁を迎えに来た。しかし、この時に多くの人々は来なかった。招待しておいたというのは、イエス・キリストは、基本的にはご自分の民の所へ来た。
「彼は自分の民の所へ来たが、民は、彼を受け入れなかった」とある。
実際イエス・キリストはユダヤの民の所へ来たけれども、彼らのリーダーたる律法学者、パリサイ人、祭司長、そして群衆は、彼を受け入れないどころか、彼を殺してしまった。
「王は怒ってその町を焼いた」とあるが、後にエルサレムにおいて成就した。
なので、このような事は、ある。
それはイエス・キリストの初降臨の時に起きた事だけれども、これは、再臨の時にも成就する可能性がある。
何故なら、黙示録に書かれているように、再臨は、小羊の婚姻の時だから。
その時に、おとめは、来たらんとする花婿、イエス・キリストを迎える。
その時に賢いおとめと、愚かなおとめがいる。
ここに書かれている事を理解しなければならない。
呼ばれた人達というのは、我々クリスチャンと無縁ではない。
「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、」とあるが、「畑」というのは、御言葉の種を蒔くという、キリスト教用語。なので、招かれても、「伝道の方が忙しい」という事だろうか。
これはクリスチャンに対しての呼びかけ。
「別の者は商売に出て行き、」 商売は、売り買い。これもキリスト教用語。
贖いとは買い取ること。教会の活動に熱心な人々は、実は、キリストの再臨の時の招きを受けないという事を暗示している。
レムナントはニュースレターを無いお金を振り絞って、そういった事に用いたり、警告したりしている。
それは、ある意味これと同じ。
「それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。」
我々は、まずクリスチャンに向けて出している。-----角笛ニュースレター-----
すると、思いもかけない反応が来る。
殆どが気にもかけない。
ある意味では、これは聖書的。
「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、」
もっとひどい事も書かれている。
「その他の者達は、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、」
ニュースレターの件に戻ると、「こんな物二度と送って来るな」など、やはり恥もかく。
「そして殺してしまった。」・・・今のところ、殺されてはいない。
王に遣わされたしもべ達もひどい目に遭っている。
恥をかいたり殺されてしまう人もいる。
そういう意味では、聖書的なので、気落ちしてはいない。
22:14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」
我々は、いろんな人に招待をかけている。
しかし、「選ばれる者は少ない」とあることも覚えておくべき。
我々は、こういう奉仕をしている。
「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」
主イエスが初降臨の頃に行った、同じような奉仕に我々は携わっている。
なので、卑屈になることは無い。
まさに聖書的な奉仕をしている。
よりによって、たくさんの教会があるのに、レムナントに来て、黙示録セミナーに来て、しかも留まるというのはすごいこと。
「選ぶ」という事に関して見ていく。
24:22もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
選ばれる人には、特典がある。
神の前に選ばれるか選ばれないかでは大違い。
我々がもし選ばれるとするならば、艱難時代がその人にとって短くなる。
24:31人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
ここに、「御使いたちが集める」と書いてあるが、誰でも集めるとは書いていない。
集められるのは、選びの民。
我々が、選ばれたのであれば、御使いによって集められる。
しかし、選ばれていないなら、集められず、滅びに入る可能性がある。
なので、「選ばれる」というのが非常に大事な事柄。
神に「選ばれる」側になる事をもとめていきたい。
良い例は主イエスの初降臨の頃の十二使徒。
彼らは確かに選ばれている。
選ばれた人の特長というのは、キリストを選び、キリストに従う。
その中で我々は、「選び」の中に入って行く。
やはり、試練の中でも、主を選ぶかが鍵となる。
一人びとりが、主を選んでいく時に、一人びとりが主に選ばれて行く。
神の前に、ある人達は選ばれるが、ある人達は選ばれない。
選ばれないときに、色々問題が起きて来る。艱難時代の期間が短くされない。
選ばれた人達を集める御使いに素通りされてしまう。
ナタナエルがその例。その頃は、多くの人に罠があった。
律法学者、パリサイ人は、罠に引っかかった。
全員一致で、イエス・キリストを有罪にしてしまった。
しかし、ナタナエルは選ばれていた。
彼は「ナザレから何のよき者が生まれようか」と言った。
ある意味彼も同じような罠に入って行った。
しかしナタナエルには特典があった。
イエス様に遭った時、「見なさい、あの人は真のイスラエルだ」
ナタナエルはびっくりして、「どうして私の事を知っているのですか」
「私は、ピリポやあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たからだ。」
これは、ナタナエルにしか分からない特別なプレゼントだった。
これを言われた時、ナタナエルは「イエス様は神の御子」だと理解した。
ナタナエルは特別待遇だった。
イエス・キリストに会う前にすでに神に選ばれていた。
神に選ばれるのは大事な事柄。
第一ペテロ
1: 3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
1: 4また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
ここで聖書が語っている事は、我々には天に資産が蓄えられているという事。
それは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」
なので、ここに書かれている事柄は、この資産を見てはいないが、この辺りは、結構大事なポイント。
聖書の中の、一つのキーポイントと言われるべき所は、聖書の奨励している事は、この世の奨励している事と大いに違うという事。
聖書のいう所は「資産を受け継ぐ」事に大きなウェイトがかかっている。
「今のこの時代を大いにエンジョイせよ」とか、「生きがいのある歩み方をしなさい」とか、そのようには言っていない。
最も、分かりやすい例は、信仰の導き手、また完成者であられるイエス様の歩み方。
主の歩み方をしている時に、えこひいき無しに言うならば、人生エンジョイしている歩み方ではない。悪く言えば、特攻隊のような感じ。
聖書の言う事が正しい。
「信仰の導き手、また完成者であるイエス様を仰ぎなさい」
これが、最も正しい歩み方。
なので、我々にはこの世の生活をエンジョイするなどは関係が無い。
聖書には主について、こう書いてある。
「恥をもいとわずして十字架を忍び、天の神の右に座し、受けるべき栄光を受けた」
主にとっては、この世の生活をエンジョイする事よりも、資産を受け継いだり、受けるべきものを受ける事の方が遥かに大事であると理解できる。
我々に関連しても、イエス様の場合の例も、一つの例なので、全くその通りにしなければならないという事は無いけれども、イエス様の歩みが理想的な歩みだという事をよく覚えておくべき。
我々のクリスチャン生活においても、「遺産を受け継ぐ」という事に目を注いでおらず、どうでもよい事と思ってしまったなら、これは、大きな勘違い。
勘違いの最も良い例が、エソウ。
エソウは長男であるから、そのまま、何もしなくても、イサクの遺産を受け継ぐ筈だった。
ところが、ヤコブにつけ入れられてしまった。
かつてヤコブに誘惑された時に、長子の資格を自分から破棄している。
エソウとは、赤いものであり、新約聖書のサルデスに通ずる。
サルデスはプロテスタントの予表。
なので、我々は、プロテスタントとして歩む時に気をつけなければいけないのは、多くのプロテスタントのクリスチャンは、赤いもの、すなわちエソウの様になって、受け継ぐべき資産をみな売り払ってしまう恐れがある。
この事は、よくよく捉えておくべき。
どうでもいいように思えているのなら、エソウと同じ罠にとらわれている。
御国の資産を何が何でも受け継ぐというように思えていたら、イエス様のような熱心さを持って、恥をもいとわず、十字架を忍び、朽ちない物を受け継ぐというように思えていないなら、すでにエソウの様に、足元が揺らいでいる。
エソウは初めから揺らいでいた。「そんなものどうでもいい」と。
多くのプロテスタントのクリスチャンは、そんな危険にさらされている。
大事なポイントからずれて、どうでも良いことに力を入れて、最も大事なものを外してしまう。
大事なポイントとして、受け継ぐべき遺産に関して聖書は、度々書いてあるので、我々はここに、思いのポイントとか、力が入っていたり、これを受け継ぐためにはたいていのものは犠牲にしていく(イエス様のように)、そういう風に持てたら、聖書的に健全な思考。
そこから外れて行くならエソウみたいにどうでも良いように思っているなら、サタンに足元を揺るがされている。
1: 5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
我々は、ペテロの手紙もそうであるが、聖書の中のあらゆる書簡を読んでいても、あらゆる書に、終わりの時の事を書いてある。
聖書は、そういう書物だという事を覚えておくべき。
残念ながら、今のキリスト教会は曲がっている。
終末について語らない。黙示録についても語らない教会が多い。偏向しているから。
ここでわかる事は、「終わりの時に現される」という言葉。
日本語の聖書を読んでいると、今一つ、見過ごしてしまう言葉がある。
ここで書いてある、「現される救い」という言葉。
これは、原語であるギリシャ語を読むと、「啓示される救い」という意味合いがある。
「啓示」とは、黙示録に通じる。
「終わりの時に救いが、あなたがたに啓示される」とペテロが語っているが、理解しなければいけない事は、一つは、ペテロは、選ばれた人について語っているけれども、選ばれた人々に対しては、どうやったら終わりの時に、正しく救われて行くか、そういう方法が啓示されて行くという事。それは、普通の事の様に思えるが、暗示されている事は、我々が、選ばれた者でないときに、また、正しく歩んでいないときに、実は、正しい救いの方法が啓示されない可能性がある。
黙示録の一つの特長というのは、7つの封印で封じられているという事。
しかし、開かれるべき人には啓示され、開かれる。
封印は、正しい人と、そうでない人を区分する。
ダニエルの封印に関して、主は言われた。
「ダニエルよ。この事は封じておけ」と。
啓示のある者にはこれを開くが、悪者には決してこの封印が開かれることは無い。
同じように、世の終わりの時に、我々が、選ばれた者としての歩みをしていく時に、正しい方法、正しい、救われる方法が、明確に示される。
レムナントにはまさに開かれている。
終わりの時に、選ばれた歩みをしていく時に、どうやって救われるかが啓示される。
しかし、全く啓示されない人々も出て来る。そういう人達は、全く光が見えず、変なものを掴んでしまう。 艱難前携挙説など。
何故そうなのか。それは、終わりの時に救われる方法が、啓示されていないから。
啓示されていないから、根拠のない安心に浸って、何も疑問を持たない。
多くのクリスチャンは、がせねたを掴まされる。
1: 5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように(啓示されるように)用意されている救いをいただくのです。
なので、我々には、救いの道とか、その道を通って行けば良いとか、正しい道、広場に出て行くことが出来るとか、危ない所から逃げて行くことが出来る。それらの事が啓示されている。
これは、尊い。
他では啓示されていない。
1: 6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
1: 7あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
ここにも書いてあるように、世の終わりの事に関連して、ペテロの手紙に関して、様々な試練とか、また、7節にあるように信仰の試練と書いてあるように、我々がはっきり理解しなければならない事は、世の終わりの時には、試練が来るという事。
偽りを掴んでしまってはいけない。
艱難前携挙説は、本当によく出来たインチキ。「試練は来るけれども、その前に教会は挙げられるから、全く問題は無い」
ペテロが言っている事と、艱難前携挙説では、絶対ペテロが正しい。
しかし、クリスチャンが真理を投げ捨てて、偽りを掴むなら、その先に救いは無いし、あるのはサタンによる惑わしと滅び。
我々は、正しくみ言葉に立たなければならない。
ペテロの手紙だけにかかわらず、聖書の他の箇所でも、世の終わりに関して試練に遭うということを、繰り返し語られている。
イエス様ご自身も、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と言われた。
この辺りを間違ってはいけない。
「試練」という言葉は何かというと、イエス様が荒野でサタンに「誘惑」された時の「誘惑」と同じ言葉が使われている。
その時のイエス様の歩み方、心構え、そして信仰に対して、サタンは、いろんな形で誘惑したり、惑わしたり、試練をかけた。
主はそれに耐えたが、我々にも似たような試練が来るという事は覚えておく。
今のことだけを考えていたら、クリスチャン生活は成り立たない。
これから起きて来る試練の時を目指して、我々は用意して行かなければ、その日に耐える事が出来ない。
例えば、普通の海岸で、1メートルや2メートルの波の事だけを考えず、30メートルを超す大津波を想定しなければならない。
同じ意味合いで、試練の日を想定して歩まなければならない。
そういう意味で、レムナントは、その日を想定して歩んで行く。
世の終わりの時、どの様な事が起きるのか、今、主の御声を正しく聞いて行くのが、それがそのまま用意につながる。
他のクリスチャンから誤解されても、弁解する機会が無いとしても、主につくという経験を積む事は生きて来る。
すると艱難時代に他のクリスチャンから冷たく言われても、訓練をされているので、守られる。
今、従って行く事が、訓練となる。
「試練」という言葉に関連して、
マタイ
26:41誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。
「誘惑」と書いてあるが、「試練」と全く同じ言葉が使われている。
ここで、イエス様が、試練という言葉に関して、一つ言っている事柄がある。
41節に、「心」と書いてあるが、これは適切な訳ではない。
正しくは「霊(プニューマ)」
問題は、「肉体は、試練や誘惑に勝つことが出来ない」と主が言われている。
その時に対処療法として、「目を覚まして祈っていなさい」という事。
この事は覚えておくこと。
具体的には、ゲッセマネの園で、弟子達が眠ってしまった事を言っているが、ここを通して学ぶことは、サタンは、色々と誘惑をかけて来る。また、試練がある。
それは霊に対して来る事もあるけれど、多くは、肉体をともなったところに攻撃、誘惑が多い。
その時の対応として、主が語っている。「目を覚まして祈っていなさい。」
祈りを通して、我々は肉体の弱さを持っているが、それも含めて、対応していく事が出来る。
祈らない人は肉体の弱さに負けてしまう。
祈ると、祈らざるとでは、体を通しての、色々な敵からの攻撃に対応できるかどうか違って来るという事を言っている。 そういう意味で、言い訳はきかない。
我々は弱さを持っている者として、誰でも同じ。
しかし、この箇所は、弱さを持っていても、祈りの中で対応できるとイエス様が語っている。
ある人は祈りを通して弱さに打ち勝っていくが、ある人は祈らずに弱さに負けてしまう。
そういう意味では、機会は平等であるが、ある人はサボり、ある人はサボらないと、そういう意味で差が出て来る。
主は、我々の肉体が弱い事を知っておられる。
しかし、それであるからこそ、祈りに関して、肉体の弱いところがカバーされる。
第一ペテロ
1: 7あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
問題は、やはり艱難時代は、「最後まで耐え忍んでこそ」だという事を覚えておく。
オリンピックは参加したこと自体に意義があるが、艱難時代は参加したこと自体に意義は無い。
3年半、耐えてこそだと覚えておくべき。
オリンピックでも、最後まで走り終えて金メダルを取れば、すごい賞賛を得る。
艱難時代、耐えた人は、称賛と光栄と栄誉になる。
オリンピックでも金メダルを取る人は少ない。
同じように、艱難時代を経て残る人は少ない。
しかし、ここにポイントがある。
「称賛と光栄と栄誉になる。」オリンピックの金メダルを取るのと、どちらが難しいかはよく分からない。
クリスチャン生活は、今の時代の終わりに来た時に、この辺りにポイントを置かないと、勘違いする。 何も無い時とか、例えば、波打ち際に行っても10センチくらいしか波が来ないような想定だと、津波の日に耐える事が出来ない。
同じように、我々は、今の平穏な時だけを想定したクリスチャン生活を送ってはいけない。
艱難の日が来る。
エゼキエル書にもある。
「主の日の戦いに備えて石垣を築かん」
石垣は、弟子の歩みに通じる。石や岩。
レムナントは艱難時代に向けて用意している。
今のこの世の常識に沿ったクリスチャン生活では、殆どこれに対応できない。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著