2:16あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
我々は、キリストにあって自由。
罪からも解放され、律法の縄目からも解放されている。
「悪の口実に用いないで、」と書いてある。それは、そういう人(悪の口実に用いる人)がいるという事。
「あらゆる事、あらゆる罪は赦される、だから何をやっても良い。後で悔い改めればいい。」
それは、勘違い。
何故なら、聖書には、明らかに、「人はそれぞれの行いによって裁かれる。」と書いてある。
キリストにある自由がある。これは良い事であるけれども、この世的な事にどんどん関わって行ったり、罪を犯していく事の口実に用いて行くクリスチャンが無きにしも非ず。
「神の奴隷として用いなさい。」とある。 KJVでは、「神のしもべ」「仕える」という言葉が使われている。
「神のしもべ」という事を見て行く。 これが大きなポイント。
この事に関連して、クリスチャンの歩み方、神に仕えて行く歩み方。
マタイ
16:24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
主に仕える、仕えない、という事を思う時に、この御言葉が思い出される。
クリスチャン生活を簡単に言うならば、失敗、成功は、やはり一つ。
永遠の命を得て何ぼであって、そう言った観点が思うなら、我々は、それと関連して、主に仕えて行く、または、自分の好きなように人生を送っていく事とは、
「いのちを救おうと思う者は」、これは自分の命、それを失うという。
「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」逆説的な事が書かれている。
「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」とは、自分の命をどのように歩むか、命を満喫した歩みか、そうでないかは、後の世の永遠の命に関わる。
自分の、この世における命を満喫した歩みをする者は、それを失う。
「わたしのためにいのちを失う」とは、キリストに仕えて行く、キリストのしもべになって行くということ。
自分の趣味とか、野望、人生の目標・・・それらを優先していたら、キリストに仕えて行く事は出来ない。 両立は不可能。
主に仕えていく時に、失うものはあるかも知れないが、「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」というのは、永遠の命に通じる。
我々は、人生をどの様に歩もうが、それは自由。
しかし、それは後の世において、永遠の命を得るか、得ないか、クリスチャンの歩みが成功か失敗かが、明らかに関わって来る。我々は、この事を知っておかなければならない。
どの様に食べようか、何に時間を使おうと、朝から晩までテレビを見ようと、休日に競馬場に行こうと、それは自由。
しかし、それらはすべて、後の世に関係して来る。
「いのちを救おうと思う者はそれを失い」とは、結局、自分のための人生を生きて行くという事。 逆に、主に仕えて行けば、自分の趣味のために取っていた時間を使えなくなるかもしれないが、それを見出す。永遠の命を得る。
この事は覚えておく。
我々が主に仕えていく時に、どう見ても両立しない。
自分の人生を満喫する、あれもこれも全部満たすという事。
それは確かな事。
16:24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
なので、我々が、主に着いて行く時に、やはり、自分を捨てなければならない面があり、また、自分の十字架を負わなければならないという面があるという事は覚えておくべき。
自分の十字架を負うとは、どういう事か。
一つ例を挙げれば、あまり友達がいないのに、一人だけいるとする。その友達に好かれるか、嫌われるか、二つの選択肢があるとする。
人間的には、たった一人の友達でも、主が、語れと言った言葉や、その人に警告を与えよという事があるかも知れない。それはある意味、十字架を負う事。
しかし、それを語って行くという事が、主に従って行くという事。
この世のあらゆる楽しみと、主のしもべとして歩むことは、両立しない。
しかし、「わたしのために、それを失うものは、それを得る」と書いてあるので、永遠の命に関しては、かなり近い。
そういう意味合いで、神のしもべとしての歩みという事は、両方いい事は無い。
しかし、それは永遠の命に近い歩み。
1ペテロ
2:17すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
「全ての人を敬いなさい」とある。 身分の低い人をも尊重していく。
「兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」今の日本に王はいないが、総理大臣であろうとも市長であろうとも、尊ぶこと。
2:18しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
なので、しもべとか、主人という言い方があるが、現代では、課長とか社長とか、偉い人がいるが、そういう人達にどの様に対応するか、ちゃんと従えという事。
世の中では不当な雇い主に争う、訴えるとかがあるが、基本的には聖書はそのようには語っていない。
善良で優しい主人にも仕える事もあるが、場合によっては横暴な主人、理不尽な事を言って来る。そういう人にも基本的に従って行くのが聖書的。
2:19人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
2:20罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
自分が悪い事をして、泥棒をしたために叩かれたり、打たれて、それを耐え忍んだからと言っても、褒められた事ではない。
しかし、正しい事を行なっていて、尚且つ苦しみを受けて、それを耐え忍ぶとすれば、それは神に喜ばれる事。
2:21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
イエス・キリストの歩みがまさにそれ。
「正しくさばかれる方にお任せになりました。」
イエス・キリストをそのように不当に扱ったり、迫害した人達は、結局裁かれた。
これは、神の裁き。 なので、我々も、正しい事をして苦しい目に遭ったり、また、我々は艱難時代をまさに迎えようとしているが、その時には、このような事があり得るという事を頭に入れておく。
21節に「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。」とある。
召されたとはどのような事か。
それは、正しく行ない、尚且つ苦しみを受けるという事。
その様に御言葉が書かれているので、ぜひ覚えて行きたい。
これから、そういう不当な時代がやって来る。
アメリカでは、正しく祈っていたり、トラクトを配っていたり、路傍伝道をしたりする人が逮捕されたりしている。
やがて、日本にも起きて来る。
その時に、我々が、どの様に対応するかという事が書いてあるのがこの箇所ではないかと理解する。その時には、不当な苦しみを受けるし、理不尽な事がおきるが、その時にこの世の人ならすぐに訴えたりなどをするが、我々は、その様に召されていない。
キリストの足跡に従うように召されている。この事は覚えておく。
ののしられても、相手を恫喝したりしないこと。
逆に、正しく裁く方にゆだねる。
我々がもし、不当な苦しみを受けたとしても、裁き主がおられるので、我々自身が仕返しをしなくても、正しく裁かれる方がおられる。
これから、そういう事が大事になる時が来る。
我々の態度をそのような歩みにする。 思い乱れない事。
一つはっきりする事は、最後の最後の時、いろんな意味で、我々の心や思い、歩みをひっくり返すような形での、試みなどが、明らかに来る。
イエス様が十字架にかけられた時がまさにそう。
十字架につけられる前、ローマ兵に着物をはがれたり、派手な着物を着せて辱められた。
感情思索が攻撃される。
そのような揺るがしが来る。
ここは、やはりポイント。
その時、ちゃんと対応する事が出来るように今から祈るべき。、
2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
主が十字架で、命を失われ、亡くなられたのは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。
このように書かれている。
ローマ
6:6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
この中で知らなければならない事は、我々は、生まれつき罪のある者。
生まれつきの、罪を習慣的に犯す性質は、死なない限り解放されないと、聖書は言っている。
実際にそうである。
人間の罪は、しつこいものであるが、死んでしまえば解放される。
世の中には、そういう罪に悩まされる人がたくさんいる。
しかし、そういう私たちの、しつこい罪は、思いを変えたからとか、志を変えたからといって、
解放されるものではない。だが死んでしまうなら、解放される。
「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
キリストが死んだのは、実は、我々のためであり、もっとはっきり言うなら、キリストが死んだ時に、「我々も死んだ」と聖書は言っている。
そういう感覚が無くても、聖書が言ったなら間違いは無い。
その様に信じて歩んで行く時に、実際に「死」というものが我々の中に働いて来る。
実際に我々は、罪を常習的に犯すような事柄から解放されて行く。
聖書に書いてある事が事実。
1ペテロ
2:25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
我々は、飼う者のない羊のようにさまよっていたり、狼が来て、食べられてしまったり、そんなところがあるが、主の憐れみによって我々は、牧者であり、監督者である方のもとに帰ったということ。
ここで、我々が、知らなければならない事、信ずべき事は何かというと、我々には、目には見えないけれども、我々を牧者として導いておられる方、監督者として導いておられる方がいるという事。
その様に書いてあるので、その様に理解する。
その様に理解して歩む人は、自分を監督しておられる方の、実態を見る事が出来る。
しかし、「こう書いてあるけれど、目には見えないし、気休めだろう」と思っている人にとっては、そんなふうになってしまうかも知れない。
監督者とはどういう事か。
我々の歩みをしっかりと監督しているという事。
良い事をすれば褒めてくれたり、悪い事をしたら罰をくわえたり、また、悪い方へ行かないようにする。
この事は、信じるべき。
我々は、たましいの牧者である方のもとへ帰った。そして、監督者の所にいるという事を覚えておく。
「何でこんな目に遭うのだろう」とか。
原因は大抵ある。何故なら監督者がおられるので、偶然は無い。
聖書には、「2アサリオンで売られている、一羽の雀さえ、その内の一羽も、天の父の許しが無ければ、地に落ちることは無い。」
まして、我々に起こる懲らしめも、神の許しが無ければ起きない。
厳しい事、大変な事など。
それが起きて来るときというのは、監督者が、いろいろやっている時がある。
そういう時は、考えて、主に聞くべき。
何か違っている事があるとか、変えるべき点があるとか、そういう叱責に目を留めていく時に知恵の中に入って行く。 また、歩むべき道に入って行く。
しかし、監督者に何度も懲らしめられても、全く歩みを糺さないと、もっと大変な目に遭ってしまったりと、とんでもない目に遭う。
起きてくる事に偶然は無い。
監督者である方の声に耳を傾けて行けば、どんなに愚かであっても、右の方へ行って叩かれたら、左の方へ行けばいいという、非常に単純な事であるが、正しい方向へ行くという事。
難しい事ではない。
耳を傾けて行く人は、賢く、歩むべき道に入って行く。 また、主の恵みを受ける。
監督者である方のもとに帰った。
監督者である方は、必ずしも、良い事ばかりして来るわけではない。
主は正しい監督者。
問題は、我々が認めないで、監督者の指示に従わず、自分一人でひどい目に遭うという事がある。
謙虚にこういう事にも耳を傾けて行きたい。
レムナントキリスト教会
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