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2010年7月18(日) 第11回黙示録セミナー by エレミヤ(前半)
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第11回黙示録セミナー H22. 7.18 (日)

 

たとえで理解する黙示録:

悪魔礼拝者が教会を席巻する

日を黙示録は預言する

 

<目次>

 

1.たとえで理解する黙示録

 

2. 悪魔礼拝者が教会を席巻する日

 

<詳細>

 

 

1. 弟子は「たとえ」の理解を求めることがキリストにより

勧められている。従って、今の教会でよくいわれる、

「聖書は文字どおり理解すべき」「霊的解釈はいけない」とは、

キリストの主張に真っ向から反対する、教えである。

 

 

”マルコの福音書 413 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなこ

とで、いったいどうしてたとえの理解(全てのたとえの理解:KJV)ができましょう。”

 

 

2. 「たとえ」の理解を通して、群集と弟子とは区分されている。

大事なこと、聖書の奥義はたとえを理解する弟子へと語られる。

しかし、群集は理解できない。

このことは神の許しの中で起きている。

 

 

”マルコの福音書 410 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子

とともに、これらのたとえのことを尋ねた。

11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たち

には、すべてがたとえで言われるのです。

12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されるこ

とのないため。』です。」”

 

 

ここに明らかにたとえにより、神の国の奥義に関する区分が弟子とそうでない人との間に

行われることが描かれている。

たとえにより、区分された人にとっては、神の国の奥義は遠いものであり、「確かに見るには見るがわか

らず、聞くには聞くが悟らず」という状態になる。

これは、終末のことばに関して確かに成就している。

弟子の歩みをしていない人々は、神の国の奥義から遠ざけられ、黙示録を確かに見はするが、

何を語っているのかは、理解しない。

 

 

3.終末に関してのみことばは、たとえと謎に満ちている。結果、

多くの人、特に群集の歩みをする人々にとって、そのことばは封印されて

いる。

 

 

”ヨハネの黙示録 51 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。

それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわし

い者はだれか。」と言っているのを見た。

3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見るこ

とのできる者もいなかった。

4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いて

いた。”

 

 

4. 終末の多くのみことばは、一見それとは気付かないがしかし、たとえ

で書かれている。そのことに気付かないと正しい理解は困難である。

 

 

例:”マタイの福音書 2429 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を

放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。”

 

 

星が天から地上に落ちるということは、終末においても起こらないと考えられる。

何故なら、北極星やら、オリオン星などが、地球に落ちて来たら、小さな地球はいっぺんで破壊されてし

まい、終末の3年半もなにもないからである。

 

 

このことばはたとえである。

星は以下のことばから、アブラハムの子孫、すなわち、旧約のイスラエル、新約のイスラエルである、ク

リスチャンのたとえと理解できる。

 

 

”創世記 2215 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、

16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、

あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、

17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加

えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。”

 

 

アブラハムの子孫、クリスチャンは皆、星にたとえられるが、星の中にも区分があり、

太陽や、月のように大きな光をもたらす器と、普通の星もある。

だから、上記言葉、「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から

落ち、天の万象は揺り動かされます。」の解釈は、

終末の苦難や迫害の中で、太陽や月に比せられるキリスト教会の大きな器も、

光を失い、福音や、真理の光を失っていく、そのことと理解できる。

 

 

また、「天の万象は揺り動かされます」とは、終末の苦難の中で、天の万象、星にたとえられる、

アブラハムの子孫、クリスチャンは、ゆり動かされ、信仰のゆるがしに会うと理解できる。

 

 

5 例:ヨエルのいった星に関することば

 

 

”使徒215 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのでは

ありません。

 

 

16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘

は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上

る煙である。

20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』”

 

 

この日、ペンテコステの日に、ヨエルのいった、「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとな

り、月は血に変わる。」とのことばが成就していると、ペテロは語った。しかし、

その日、ペンテコステの日に太陽が闇となったり、月が血にかわった、そのような天変地異が実際に沖田

とは思えない。しかし、このことばをたとえ、と理解するなら、それは成就している。太陽に比せられる

大きな器が真理の光を失う、また、月のような大きな器が、血に変わる、すなわち、多くのユダヤ人宗教

指導者が、 おかしな霊で惑わされ、キリストを十字架につける、そのことは成就したのである。

 

 

6. これらの「星」「天の万象」に関する基本的な理解が

できると以下の黙示録の星に

関する箇所もたとえが理解できる。

 

 

”ヨハネの黙示録 612 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、

太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようで

あった。

14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。”

 

 

「大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」

とのことばの意味合いは大地震すなわち、大きな迫害や、揺るがしの中で、太陽、大きな光を持つキリス

ト教会の器、働き人も真理の光を失い、真理を語れなくなる、また、月に比せられる大きな器も血、おか

しな霊にやられていくと理解できるのである。

 

 

13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすよう

であった。”

 

 

天の星が地上に落ちた、とのことばももちろんたとえである。天の星にたとえられるクリスチャンが、地、

この世のものと堕落させられる、そのことを意味していると理解できる。

 

 

「大風に揺られて」とは以下の教えの風と関係がある。

 

 

”エペソ人への手紙 414 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪

賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく”

 

 

すなわち、クリスチャンがおかしな教えの風の中で、実、御霊の実を落としていく、御霊の実を失ってい

く、そのことをさすと理解できる。

事実アメリカでは、おかしなテレビ伝道師の扇動の教えに踊らされてイラク殺害に同調する、

憎しみにあふれ、御霊の実を失っていくクリスチャンが多い。

 

 

14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。”

 

 

この箇所の解釈をすると、天は星であるクリスチャンが住むところとして、教会のたとえ。

巻き物は聖書のこと。旧約時代の聖書は、羊皮紙に書かれ巻き物になっていた。

だから、ここで書かれているのは、みことばに関する変質、背教。

終末の教会が、背教となり、巻き物、聖書のことばを拒否するゆえに、天、教会が消えていく、

教会ならぬものになっていくことのたとえ。

「すべての山や島がその場所から移された」とのことばにもたとえが隠されている。

 

 

山はぶどうやいちじくの木に比せられるクリスチャンが住むところとして教会のたとえ。

島も同じく、海、聖霊の働きの中に存在するものとして、教会のたとえ。

その山や島が、「その場所から移された」とは、教会があるべき位置、留まるべき地位から動かされ、変

質させられ、背教させられていくことのたとえである。

このことは、これから、世界の強権、アメリカ主導の強制的な教会操作の中で、

実現してくると思われる。

 

 

7. 黙示録8章をたとえで理解する:

 

 

”黙示録8:1 小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。

2 それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。

3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香

が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。

4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

5 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、

雷鳴と声といなずまと地震が起こった。

6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。

7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。

そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ

込まれた。そして海の三分の一が血となった。

9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落

ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。

11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったの

で、その水のために多くの人が死んだ。

12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の

一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。

13 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざ

わいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」”

 

 

この箇所のたとえを理解する。

 

 

7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられ

た。”

 

 

雹は、水からできるもの。水は「水のバプテスマ、聖霊のバプテスマ」とあるように、霊的なことがらの

たとえ。そして、水からできるものでも雨は幸いや、収穫をもたらすが、

雹は人々や家畜に害をもたらす。結果、雹は人に災いをもたらす霊のたとえと理解できる。

すなわち、ここに書かれているのは、終末の日、背教の日、教会が聖霊をないがしろにし、追い出す日に

起きる、悪霊による、災いである。

 

 

”そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。”

 

 

ここでは、その霊の災いにより、木の三分の一

が焼けたことが書かれている。

 

 

木は、ぶどうの木、いちぢくの木のようにクリスチャンのたとえ。 だからここで書かれているのは、ク

リスチャンが悪霊のリバイバルに影響されてしまう、そのこと。

青草は羊や、牛のえさ。羊、牛はクリスチャンのたとえ。

すなわち、クリスチャンが読む本も教理も、また受けるメッセージもみな、

悪霊の影響の下に入ってしまうことをさす。

 

 

8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投

げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。”

 

 

山は、木、クリスチャンが育つところとして、教会のたとえ。火の燃えている教会は、だから、

霊、悪霊に燃やされる教会、具体的には、トロント悪霊リバイバルの本拠地、トロントエアポートチャー

チ、はたまた、ペンサコーラ悪霊リバイバルの本拠地、ブラウンズビル教会のようなものか。

それが、海、すなわち、キリスト教会の霊の世界に投げ込まれる。すると、「海の三分の一が血となった。」

すなわち、キリスト教会の霊的な世界の1/3が悪霊リバイバルの影響下に陥るとのたとえ。

このことは、今、聖霊の第三の波系のリバイバル推進の中で、成就している。

クリスチャンは「人間をとる漁師」のことばのように、魚にたとえられる。魚は海にいるものであるが、

それは、海、水、聖霊の中で生きるものとしてクリスチャンのたとえ。

                                               

                                               

 9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた”

 

 

海の中にいたいのちのあるもの、とは、聖霊の命を受けていたクリスチャンのうち、その 三分の一が霊

的に死ぬということをさす。今はこのように霊的な危険な時なので、いやしがある、奇跡がある、

金歯になる、はたまた、死人がよみがえるなんて、キャッチフレーズに引かれて、

おかしなリバイバル聖会に参加すべきではない。その時、もっとも大事なものを失い、悪霊のとりことな

る可能性がある。

船は漁師、伝道者、牧師が乗るものとして、教会のたとえ。 だから、舟の三分の一も打ちこわされたと

は教会の三分の一が悪霊リバイバルの影響の下で破壊されていくことをさす。

 

この節も基本的には上記節と同じことを語っており、悪霊リバイバルが背教の教会を席巻していくことを

語っている。

                 

                              ”

10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落

ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。

11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったの

で、その水のために多くの人が死んだ。”

 

 

「たいまつのように燃えている大きな星」とはキリスト教会の大きな器のこと。今でいえば、

ベニーヒン、ラインハルトボンケのように、大いに「怪しい」リバイバルで用いられている器のこと。

 

 

苦よもぎとは何か?この箇所は第一義的にチエルノブイリや放射能汚染のことを語っているわけではない。

そんな意味ももしかすると、何番目かの意味合いであるかもしれないが、基本的に黙示録は

クリスチャンへの警告の書なので、信仰や背教、教会に関する警告に関して理解するのが第一義であるは

ず。

 

苦よもぎに関しては以下の様にエレミヤ書に記載されている。

 

 

”エレミヤ書 2315 それゆえ、万軍の主は、預言者たちについて、こう仰せられる。「見よ。わた

しは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全

土に広がったからだ。」”

 

 

この箇所から見る限り、    苦よもぎとは、背信の預言者がその罪の罰として受ける、

苦い食べ物、苦い飲み水と関係することがわかる。

だから、上記黙示録の  「川の水の三分の一は苦よもぎのようになった」とは、

川、水、聖霊の働きが、苦くなる、聖霊の甘い水どころか、悪霊に影響されたリバイバルが蔓延すること

をさすと理解できる。           

結論としてこの箇所がいっていることは、   たいまつのように燃えている大きな星、すなわち、

大(悪霊)リバイバリストの影響で各教会の霊が変質し、その結果多くのクリスチャンの霊的命が失われ

ることである。                                        

                                               

                                               

                                               

                                         

12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分

の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。 ”

 

 

ここでは、  「太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれた」ことが書かれていま

す。具体的には、太陽や月という大きな器そして、星にたとえられる普通のクリスチャンもみな、おかし

なリバイバルの中で、光、真理の光を失っていく、そのことをさすと理解できる。

 

 

結論としてこの黙示録8章で描かれているのは終末の日に、その背教のゆえに、おかしな霊に翻弄され、

命を失う教会の姿。

どの節も同じようなことを語っている。

 

 

この方法は聖書特有の方法である。かつての日、エジプトに売られたヨセフはパロ王の夢を解きあかした。

その日、パロ王は七匹の肥えた牛と七匹のやせた牛の夢を見た。さらに別の夢、

豊かな7つの麦とやせた7つの麦の夢を見た。これらの2つの夢の関係は?

それらは同じ事柄をさす、その同じことがらを2度にわけて神が見せたその理由はこの夢がすみやかに

実現することを示す。

この黙示録8章の悪霊に関する記述も同じであり、それぞれ違う話のようで、実は同じ話を表現を変えて

語っているのに過ぎない。

                                               

                                               

                                               

                                               

                                               

  

                                               

                                               

                 

8. 黙示録9章をたとえで理解する;

 

 

”黙示録91 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるの

を見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。

2 その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の

煙によって暗くなった。

3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。

4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押さ

れていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。

5 しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛

は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。

6 その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行く

のである。

7 そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の

顔のようであった。

8 また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。

9 また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつ

けるときの響きのようであった。

10 そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力が

あった。

11 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシ

ヤ語でアポリュオンという。

12 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。

13 第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を

聞いた。

14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれてい

る四人の御使いを解き放せ。」

15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺

すために解き放された。

16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。

17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶっ

た青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが

出ていた。

18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一

は殺された。

19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を

加えるのである。

20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、

銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、

21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。”

 

 

この箇所のたとえを見ていく。

 

 

”黙示録91 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるの

を見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。

 

 

一つの星は今まで見てきたように、一人の器。器は、天の門を開くのではなく、逆に底知れぬ穴、悪魔が

潜む穴を開く。結果、反キリストの霊が解放され、教会を自由に席巻するようになる。

 

 

2 その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴

の煙によって暗くなった。”

 

 

底知れぬ穴は、閉じ込められ、封印された穴から、サタンが解き放たれることに通じる。

結果、教会には、悪霊が自由に働くようになる。

御使いが底知れぬ穴に閉じ込められ、終末の裁きの日に解き放たれることは以下に書かれている通りであ

る。

 

 

2ペテロ24 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみ

の穴の中に閉じ込めてしまわれました。”

 

 

終末は恐ろしい時であり、今まで閉じ込め自由に働けなかった御使いが穴から出て来て、

教会を自由に惑わす日なのである。それは、ある日、刑務所がこわれて、

天才的な詐欺師や、残酷な殺人者が、牢から解き放たれる日に通じる。

 

 

”太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。”

 

 

この御使いの惑わしにより、太陽、器は真理の光を失い、暗くなる。

 

 

3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。

4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押さ

れていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。”

 

 

いなごとは、何か?昆虫が人間世界を支配するのか?はたまた、仮面ライダーのことか?

いなごを解釈するのに、この黙示録のテキストのみから解釈してはいけない。

ペテロの手紙でいう「私的解釈をしてはいけない」と誤訳されている箇所ののことばのギリシャ語の意味

合いは、「その箇所のみから解釈するな」すなわち、他の箇所をも参照して解釈せよとの意味合いなので、

いなごに関して他の聖書箇所をも参照すべきである。

 

 

いなごに関して書かれているのは、下記ヨエル書。

 

 

”ヨエル14 かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばっ

たが残した物は、食い荒らすいなごが食った。

5 酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があな

たがたの口から断たれたからだ。

6 一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それに

は雄獅子のきばがある。

7 それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引

きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。”

 

 

ここでは、いなごとは具体的には、神の民の国を荒らし、ぶどうの木を荒らし、いちじくの木を引き裂く

凶暴な国民であることが書かれている。

ぶどうの木、いちじくの木は今の時代のたとえとしては、クリスチャンのことなので、クリスチャンを害

するために、終末の日にいなごと呼ばれる国民があらわれてくる、そう理解できる。

このことは、今キリスト教会で、実現している。

キリスト教会は内部に入り込んだ、敵に陥れられており、教理はおかしな教理へ変えられ、

艱難前携挙説を始めとしたおかしな教理は教会を席巻している。また、

おかしなリバイバルは教会を行き巡っている。

 

 

5 しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛

は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。

6 その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行く

のである。”

 

 

さそりは、霊的なことに関する害です。その害をこのいなごから受けます。

 

 

7 そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間

の顔のようであった。”

 

 

そのいなご、キリスト教会を食い荒らす人々は、「出陣の用意の整った馬に似ていた。」ことが

書かれています。要するに何か軍隊的なグループなのでしょう。

「頭に金の冠のようなものを着け」とのことです。金は信仰を意味しますから、

信仰の勇者のように、クリスチャンの間では思われている人々なのです。

「顔は人間の顔のよう」とのことです。人は、アダムがそうであったように、神の息、霊を受けて

生きた人となります。ですから、人とは生きた神の霊を持つクリスチャンのたとえなのです。このいなご

が人間の顔のような顔をしているということは、実態はともかく、このいなごといわれる人々は、クリス

チャンと皆から思われているはずです。その実際は、フリーメーソン、悪魔礼拝者といわれる、

ビリーグラハムなどは、その代表でしょうか。

彼は、いかにも福音派という顔をして教会にもぐりこみましたが、

事実は、カソリックをプロテスタントへ持ち込んだ偽り者です。

 

 

8 また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。”

 

 

女の髪はたとえであり、権威に服従することと関係します。以下のことばのとおりです。

 

 

1コリント115 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自

分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。

6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ず

かしいことなら、かぶり物を着けなさい。”

 

 

要するにこのいなごの軍隊は、秩序立っており、権威への服従がはっきりしている、軍隊的な組織だとい

うことを語っているのでしょう。

 

 

9 また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつ

けるときの響きのようであった。

10 そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力が

あった。”

 

 

胸当ては以下のことばと関係するか。

 

 

”エペソ人への手紙 614 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当

てを着け”

 

 

従って、このいなごの軍隊の人々は実際は教会破壊者でありながら、人々の前には、

正義の人のように見える。

ただしい信仰の義の道を教えているようで、実際は悪霊のリバイバルを引き起こした、

ピーターワグナーはその例か。

 

 

11 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシ

ヤ語でアポリュオンという。”

 

 

アバドンとは破壊という意味合い。すなわち、教会破壊、信仰破壊の人々が教会に入り込むことが許され

る日、それがこの黙示録に記されたいなごの軍隊の日である。

このことは、すでに実現しており、キリスト教理はおかしな神学者の教えで席巻されており、

リバイバルは悪霊リバイバリストによって、席巻されている。

 

 

終末の日とは、恐るべき日であり、それは、背教の教会のど真ん中に悪魔礼拝者や、

サタンを主と崇める人々が侵入し、登場し、なおかつ、どのクリスチャンはそれと気付かない、というホ

ラーの様な日なのである。

 

 

12 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。

13 第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を

聞いた。”

 

 

上記いなごの軍隊の話はここまでで終わり、これからは別の話。

 

 

14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれてい

る四人の御使いを解き放せ。」

15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺

すために解き放された。”

 

 

この解き放たれる、御使いは以下の閉じ込められていた御使い。

 

 

2ペテロ24 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみ

の穴の中に閉じ込めてしまわれました。”

 

 

だから、終末の日とは、尋常な日ではなく、恐るべき存在、犯罪のエキスパートが牢から解き放たれるよ

うな特別な日である。御使いは、人よりも頭もよく偽りもうまい。従って、

終末の時代においては、人の知恵に頼る人々は一網打尽で誤りに捕らえられていく。

 

 

何故ここで、「大川ユーフラテス」が描かれているのか?

ユーフラテス川は旧約の神の民の境界線。今でいえば、クリスチャンと未信者との間を区分する川、聖霊

の川のたとえ。そのユーフラテス川で御使いが解き放たれるとは、聖霊の働きに害が与えられ、教会に聖

霊ならぬ、悪霊が解き放たれる日が来ると理解できる。

その悪霊の惑わしの中で、人、神の息を受けたクリスチャンの1/3が命を失い、永遠の命を失う。

 

 

16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。”

 

 

騎兵すなわち、この悪霊軍、悪霊リバイバルに賛同し熱狂的に参加するクリスチャンの数は、2億人であ

ることが書かれている。今、世界の総クリスチャンの数は20億人なので、その1/10が悪霊リバイバル

の先兵となる予定である。

 

 

17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶっ

た青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが

出ていた”

 

 

火と煙と硫黄はみな、火、すなわち、霊的なことに関するたとえ。すなわち、この一見神のリバイバル、

その実、悪霊リバイバルに巻き込まれた人々が永遠の命を失っていく。

 

 

19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を

加えるのである。”

 

 

ここに書かれている、頭や尾を理解するには以下を参照すること。

 

 

”イザヤ書 914 そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で

切り取られた。

15 そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。”

 

 

すなわち、頭は身分の高いもの、指導者、また尾は、預言者である。

だから、「その尾は蛇のようであり」とは

要するに蛇のような、偽預言者、偽教師により、このインチキ悪霊リバイバルは、操られていくというこ

と、また、「それに頭があって、その頭で害を加えるのである。」とは、この悪霊リバイバルのリーダー

が強圧的に人々を迫害する、そう理解できる。

 

 

20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、

銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、

21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。”

 

 

これらの記述は未信者ではなく、クリスチャンに関する記述である。「悪霊ども....を拝む」とは、

トロント、ペンサコーラの悪霊リバイバルを拝むことであり、また、「金、銀、銅、石、木で造られた、

見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝」むとは、これらのインチキリバイバルに心酔する、

おかしな器を拝し、偶像崇拝を行うこと。

 

 

21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。”

 

 

第三の波系の人々が提唱する霊の戦いや、ヤベツの祈りなどは、魔術の方法であり、それは、ここで書か

れている神の憎む魔術に通じる。盗みとは、単にコンビニでお金を盗むことをいっているのではなく、

神のことばを盗み偽り、神のことばの終末の警告を否定し、艱難前だの中だのインチキの教理とすりかえ

ること。

これらは、神により、憎まれる。

 

 

ー以上ー